川合川に沿った道から階段を上り大原神社の境内に入りました。
鳥居をくぐると、右側に茅葺の建物、絵馬殿がありました。これは京都府有数の絵馬を所蔵する絵馬殿だそうで、「神馬図」「四季耕作図」などが奉納されています。
拝殿前の黒灰色のブロンズ像は、狼を模した狛犬と聞いてきました。威厳のある立派な像です。拝殿の左側に社務所がありましたがシーンと静まり返って留守のようでした。
狼さまの姿が印刷された絵馬が置いていあったので、貯金箱のような箱に初穂料を入れて1枚いただきました。絵馬には、「安産祈願」とあり、「大原大神」の両側に、向かい合った狼像が配されています。右側は若干口を開け、左側は閉じている。「あ」「うん」の狼像です。
拝殿の向かいには、石造りの犬像が2体置いてありました。可愛らしい。これはどう見ても狼ではなく犬のようです。
社務所にインターホーンがあったので、試しに押したら、返事があって、お札を戴きたいというと、そこへ行きますから少しお待ちくださいとの声。その5分後、宮司さんが車で現れました。
拝殿の向かいに置いている2体の犬像が気になっていたので、さっそくそのことについて伺うと、「七五三やお宮参りで来る参拝者も多く、犬は安産の守り神で、可愛らしい犬は、お子さんを和ませるために置いているんです」
狼信仰の神社に犬像。どっちもイヌ科なんだから別にいいだろうと思うかもしれませんが、意外とこういったちゃんとした犬像を設置している狼信仰の神社は少ないのです。(「少ない」というか、今、思いつかないほどです)
ここは綾部藩の領地になります。綾部藩主九鬼侯の信仰が厚く、江戸時代には、安産・万物生産の神として信仰を集め公卿諸侯の参拝も多かったようです。社記には、
安永年中 丹波園部藩主小出美濃守の代参
寛政二年 公家清水谷家の代参
寛政三年 公家北大路弾正少弼の代参祈祷
寛政七年 日野大納言家の代参安産祈祷
寛政十二年 伊豫国宇和島藩主世子夫人代参安産祈願
嘉永二年 丹後国宮津藩主本庄侯夫人御供田四畝六歩寄進
など、安産祈願をしたことが記されています。
俺が埼玉県から来たと知ると、宮司さんは、
「埼玉と言えば、深谷の岡部藩。岡部藩主の奥さんなどもお参りしたようですよ」
という。もちろん代参だったのでしょうが。西日本だけではなく、全国的にここは安産祈願としては有名だったようです。
「産屋の里」によると、
「大原神社には『大原神社本紀』という大原神社の縁起を書き綴ったものが5点残されており、大原神社が安産の神として信仰を集める所以として、 「邪那岐と伊邪那美の神は天下万民を生み出した父母であるのだから、天下太平・国土安隠・宝祚長久・五穀能成・万民豊饒を守護すること、 他所の神社に勝り、天下万民を生み出した神なので、ことに婦人の安産を守る神なのである」と記されて」
いるそうです。
「本殿内には、非公開の狼の狛犬がありますが、お札の絵柄がこのご神体の狼さんの姿を象って記したものです」
と、宮司さんは教えてくれました。お札や車のステッカーもいただきましたが、狼の意匠はどれも同じようです。
川合川に橋が架かっていますが、西へ50mほど行くと、産屋があります。
京都府有形民俗文化財に指定されている産屋の解説看板には、このようにあります。
「この産屋と親しく呼ばれる建物は、大原神社の対岸にあり、茅葺、切妻屋根、それをそのまま地面に伏せたような天地根本造(てんちこんげんづくり)という、古い建築形式で造られています。屋根の合わさる「妻」の方向から出入りします。古くは古事記・日本書紀にも著されており、日本の産育の習俗として古くより使われていました。
大原では、出産の折、十二把のワラ(閏年は十三把)を持ち込み、出入口に魔除けとして古鎌を吊り、七日籠って出産していました。この習俗は大正年間まで続き、また産後三日三夜籠る(一日一夜と変遷するも)習慣は、昭和23年ごろまで続いていました。
現在は利用されなくなりましたが、産後に身体を休めた安息の場所であろうこの産屋を、地元の方々は大切に守っています。
全国に残る数少ない産育習俗を伝える文化財として、また安産の神、大原神社の信仰の源として多くの人々に愛されています。福知山市教育委員会」
産屋の入口が本殿に向いているのも、偶然ではないらしい。大原神社の狼さまの霊験をうけるためのようです。そして土間の砂は「子安砂」とよばれ大原神社の安産の神符として授けられたという。
狼と犬。
期せずして、子安信仰で有名な大原神社で、狼と犬の両方を見たわけですが、この偶然は、ある思いを抱かせました。
俗に犬は、安産・多産であること、また、生命力にあやかろうとして子安信仰の対象になりました。今でも、戌の日に安産のお参りをするとか、妊娠5か月の戌の日に妊婦が岩田帯(腹帯)をつける習俗は残っています。犬張り子、犬の子のお守りもあります。これについては何度も書いてきました。
子安信仰と犬には親和性があるのは確かですが、それじゃぁどうして他の動物ではなかったのか、という疑問が残ります。
犬像を探していたら、中には、犬と狼の区別がつかないものも出てきて、それから狼像や狼信仰に興味を持っていったわけですが、狼信仰を知るにつけ、狼もまた子安信仰と関わりがあることがわかってきました。
とくに、前著『オオカミは大神 弐』でも書いた「狼の産見舞い」という祭りを見てからですね。狼が子供を産んだら、小豆飯などのお供えするというものです。もともとは狼祭りだったのですが、群馬県六合の祭りは、狼は絶滅したし、最近では、狼の影はまったくなく、子どもの健やかな成長を祈る祭りに変わっていますが。
西村敏也著『武州三峰山の歴史民俗学的研究』には狼の産見舞いについて、
「柳田國男氏は、山の神が山の中で子を産むという俗信が神としての存在である狼と結びついた儀礼、松山義雄氏は狼害の緩和策としての儀礼と位置づけている。朝日稔氏は、犬の安産の知識が狼と習合したという可能性を示唆している」
とあります。朝日稔氏の説によれば、犬の子安信仰が先にあったようです。
そもそも狼と犬の区別はついていなかったというか、区別する必要があったのだろうか?とさえ思います。里にいるのが「犬」、山にいるから「山犬」という呼び名にも、それが表れているような気がします。
犬と狼、どっちが先かはわかりませんが、少なくとも、「犬」と「狼」がとくに動物の中では、子安信仰に関係しています。どうも同じイヌ科の「狐」も関係するようですが。
犬、狼の鋭い嗅覚が関係するという話、水との関係もあるかもしれません。
少なくとも、大原神社は、狼と犬が両方とも子安信仰と関係することが目に見える形で機能している神社で、俺の「物語」の中では、大切な神社になりました。
最近のコメント