【犬狼物語 其の五百八十五】兵庫県養父市 宿南の掃部狼婦物語
養父神社から車で約20分、宿南には「掃部之塚 」があるという情報を得て、探しに行きました。
これは文化文政期(1804~1830年)に成立したとされる「掃部狼婦(かもんろうふ)物語」という狼物語にまつわる塚です。かつて高木掃部が住んでいたという屋敷跡に石碑が立っています。
宿南の掃部狼婦物語は、こちらの養父市HP「まちの文化財(105) 宿南の掃部狼婦物語」(https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shakaikyoiku/1/1/2150.html)と、
「日本伝承大観」(https://japanmystery.com/hyogo/kamon.html)から、要約してみます。
高木掃部(かもん)という人物には、綾という妻がいましたが、ある日、綾が三谷の山に桜の花見に出かけたとき、落とし穴にいた2匹の子連れの狼を発見して助けてやりました。 その後、綾が病気で亡くなります。綾が助けた狼が人間の女性に化身して、高木掃部の妻となって高木掃部を守って恩返しするのです。
また、物語の中に、修験者・威妙院という人物が出てきますが、夜道で狼の群に襲われ、木に登ったとき、狼は梯子のように肩車をして威妙院のそばまで襲いかかり、持っていた宝剣で狼の頭目を切りつけたという描写があります。翌日、威妙院が掃部の屋敷を訪ね、妻の額の傷から昨晩の狼の頭目であったことがわかるのです。ただし、妻は、この宝剣がもともとは掃部の家宝であったので、奪い返したのでした。
結局、掃部は狼とわかっても追い出したりしなかったのですが、狼は姿を消してしまいました。すると、床下から額に一太刀浴びた大きな狼の遺骸を発見し、この遺骸を棺に納め葬ったという。そしてその後、嫡男は近くの養父神社に狼を祀る社を建立し、“天国の短刀”を妙見山にある日光院に奉納したとされます。
掃部狼婦物語は、史実と虚構が組み合わされていて、現代風にいうと歴史小説だそうです。
確かに、狼を助けて、恩返しを受けるというところは狼報恩譚だし、狼が人間の妻になるというところは異類婚姻譚、それと狼が肩車するというところは「千疋狼」「鍛冶屋の婆」の要素もあります。いろんな狼にまつわる昔話や伝説を組み合わせ書いた小説だということがわかります。主な狼の昔話・伝説はすべて含まれているのでは、と思えるほどです。
ところで、宿南地区自治協議会のHP(http://www.eonet.ne.jp/~syukunamikyo/mati_syoukai/kawahigasi.html)には、
今から580年くらい昔の話です。川東の館(たち)の上に高木掃部(たかきかもん)と言う武士が住んでいました。春の花見に一家で三谷に出かけたところ、深い落し穴に狼の親子が落とされていました。心やさしい掃部の夫人牧(まき)さんは生き物殺しを見るにみかね、親子を助けて、放してやりました。
それからの狼の恩返し、牧さんの実子=継子(ままこ)を邪魔にして呪い殺そうとした邪悪な後妻の企みに・・・・川西区上流部あたりに在った諏訪大明神での真夜中の「祈り釘」打ちを身をもって止めさせ、高木家代々の宝剣を取り返した。狼の恩返しの物語です。屋敷跡には「掃部の塚」の石碑があり、恩返しの三谷川対岸諏訪には大明神の神社跡の礎石群が出ています。
物語の詳しいことは「八鹿のむかし話」にあります
とあり、まだ確認していませんが、この物語はいくつか種類があるようです。
宿南に着いたのは夕方でした。ただ詳しい場所がわからなかったので、適当に車を走らせていると、史跡 青谿書院というところに到着。意外と見つからないので、ここの戸口に記されてあった地元の観光ボランティアの人に電話しました。
道案内というのが、電話では難しいという経験は何度もあります。地元の人の目と、初めて来た俺の目とは、同じものを目にしたとしても、それを意識するかどうかは別の話で、結局、その人の行き方ではまた迷ってしまい、宿南小学校のあたりをうろうろし、道を歩いていた人たちに「掃部之塚」を聞くのですが、みんな知らないという。
そしてあるおばあさんに聞いたとき、地元の集会所のようなところ (宿南地区自治協議会)に詳しい人がいると言って、その建物まで案内してくれたのでした。そしてそこで尋ねたら「さきほど電話くれたかたですか?」と。なんと、青谿書院から電話したボランティアの人でした。
もう一度道を聞いて、ようやく見つけることが出来ました。
害獣除けのフェンスの内側に「掃部之塚」は立っていました。金網の門を開けて中に入れることはさっき聞いて知っていたので、近づくことができました。古い石碑です。石碑の表面には「掃部之塚」、裏面には「明治廿二年十一月建立」の文字が彫られています。
掃部屋敷には、明治の初めまで神社があり、祭日には、出店も出て賑わったそうです。流行り病が起こった時には、養父神社にある山野口神社から神社を分社してきました。
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