(東京都足立区 千住神社/三峯神社の都内最古の狼像)
(東京都目黒区 目黒不動尊の都内最古の犬像)
(東京都文京区 吹上稲荷神社の都内最古の狐像)
全国の犬像を撮り始めたら、中には「犬」か「狼」か、というあいまいなものが出てきて(たとえば「お犬さま」という呼び名、伝説の「しっぺい太郎(霊犬早太郎)」、「めっけ犬」などなど)、それを調べていたら「狼信仰」にたどり着きました。
なので、「犬」と「狼」の境はあいまいだというのは、当初から感じていたことです。そして現在、犬は狼の一亜種という説もあり、文化的だけではなく、これは定義の問題なのでしょうが、生物の種としても、イヌとオオカミは同じ種ということになります。(これについては、後日また書きます)
また、ここにきて、今度は「狼」と「狐」の境もあいまいに感じてきました。
実際、関東地方の三峯神社、御嶽神社などの狼信仰の神社を参拝すると、狐のように見える「お犬さま(狼)」、狼ふうな「お稲荷さん・狛狐」というものに出会うこともありますが、これは信者だからといって、狼像と狐像の区別がついているとは限らない、狐像をたくさん作ってきた石工が、「狼像を作ってほしい」と注文を受けた時、その像が狐の姿の影響を受ける、という理由だろうと俺は思っていました。
信仰的には、別に狼像だろうが、狐像だろうが、像の見かけは問題ないわけですが。
いや、でも、もしかしたら・・・
これは単なる「間違い」「勘違い」「知らない」ということではなくて、日本人の深層心理の中では、狼と狐は、イコールとは言わなくとも、近い存在であることを表しているのではないか、と思ったのです。心理学的には、言い間違いがその人の無意識の表われとも考えられるし。この場合は、個人の無意識ではなくて、日本人の集合的無意識と言えるでしょうが。
そんなことを考えているとき、加門七海さんの『霊能動物館』を読みました。
「狼の部屋」「狐の部屋」には興味深い話が載っていました。とくに「狐の部屋」に、
・・・つまり?
狐信仰の源は狼なのか?
お狐様はお犬様?
とあり、やっぱりそうだよなぁと、妙に納得したのです。狼信仰や狐信仰を知るにつれて、だんだん両者が近づいていくのを肌で感じるのは、俺だけではなかったと。
加門さんも、このことを詳しく調べ始めたようで、
「すると、徐々に狐の前身は狼だという推論は、過去にも多くの研究者達が言及していることがわかってきた。決定的な証拠こそないが、両者の近似を胡散臭く思う人は、稀というわけではないらしい。」
そして加門さんは、どうして狼から狐に変わったかということを、このように言っています。
藤原氏の氏神は春日大社で神使は鹿。
「だが、狼はそれを喰い殺す。狼が神であるならば、その存在は春日の神より強いものとなってしまう。藤原氏が許すはずはない。(中略) 猛き神である狼は、藤原氏の権勢の下、鹿にとって無害な狐にすり替えられたのではなかろうか。」
なるほどと思います。
中村禎里著『日本動物民俗誌』でも、「犬」「狼」「狐」の境があいまいであることに触れています。いや「境があいまい」というより「3者は入れ替わることがある」ということなのでしょうか。
『日本動物民俗誌』の「キツネ」の章には、
「人に訓致されがたいイヌ、山住みのイヌとしてのキツネの特徴は、オオカミにもあてはまる。前者においては怜悧が、後者にあっては強力がまさるという区別はあるが、柳田(一九三九)は、日本の民俗においてキツネとオオカミのばあいにかぎってその嫁入り、出産に関心がもたれることから、キツネの嫁入りとオオカミの産見舞いはもとはひとつの信仰であったのではないか、と推測する。谷川健一も、キツネと由縁ふかい秦氏の祖先がオオカミに出会って格闘を中止させたという『日本書紀』(七二〇年)欽明記の説話を引用し、二種の動物にたいする信仰の類縁を示唆した。キツネとオオカミにかんする民俗の近さから、両者の信仰を説明する鍵として、これらとイヌとの関係がふたたび浮かびあがってくるのである。」
「オオカミ」の章には、
「イヌの忠誠、オオカミの強力、キツネの狡猾は、日本の民話における三者の個性の核心であるが、それにしてもこれら三種類の動物の関係は微妙である。イヌも人に危害をくわえることがあるし、オオカミが狡猾なふるまいをなす場面もないではない。キツネもしばしば人につくす。かくてこれらのイメージは混交するが融合はしない。三者が敵対しあうさい優劣の序列は、オオカミ・イヌ・キツネの順に不動である。松山および平岩によれば、最強者オオカミの骨や牙や糞は、最弱のキツネを、この動物に憑かれた人から追放する効能を持つ。」
同じく中村禎里著『狐の日本史 近世・近代篇』の「第3章 狐付きと狐落し」には、
「おなじイヌ科の犬が狐にとって大敵であるという認識は、古くからあった。」(『日本霊異記』)
そもそも「イヌ科」という形態的にも似ている動物であることが、3者を混同することの一因ではあるのですが、だからこそ、この3者に対する人間の抱くイメージは、3者に分担させたと考えることもできるでしょう。いや、それ以上に、人間そのものが内面に抱えるイメージを、これらイヌ科動物に投影したといえるのかもしれません。
狼には強靭さや孤高や神秘さを、犬には忠実さや親しみを。狐は可愛いとは思うし、狐にはまったく恨みもないんですが、狐には狡猾さや怪しさなど、あまり良いイメージを持ちません。そういうイメージを植え付けられてしまった不幸な狐には同情します。
動物に対してのステレオタイプなイメージはまだ許されるかもしれませんが、人間に対してのこういったイメージは差別と結びつき、だれかが不幸になります。これは昔からかわりません。今ならなおさらです。
つまり、こういうことではないかなと。人間の心には清濁含んだドロドロしたものが渦巻いています。でも人間の心はきれいごとだけではないことはみんな意識しているでしょう。俺もそうです。ステレオタイプを持って、差別もします。人をやっかみ、妬みます。
でも、こういった負のエネルギーの表出を「良し」としてしまうと、社会が成り立ちません。なので、その負のイメージを動物に投影した面もあるかもしれません。
集落の中で裕福になった家があると、「狐が憑いた」として。やっかみや妬みそのままだと角が立つので、それを狐のせいにした。これなども人間に対するイメージを身近な動物に託すことでなんとか差別を押さえるという効果はあるのかもしれないなぁということです。人間の深層心理を、3者の動物に託している面もあるのではないかと思うのです。
そしてもうひとつ。狼から狐に変わることと、日本人の生活圏が、山から里へと下りてきたことと関係があるのではないかということです。
3年ほど前、山形県の狼信仰を追って、鮭川村を訪れたときでした。
『鮭川村史 集落編』(昭和61年)には、小舟山が大草原であったことが記されています。
また『真室川町史』(昭和44年)の「狼穴 小舟山」という項目(原典は『豊里村誌』)には、
「旧藩時代には小舟山方面の一大平原は草原であり狼のすみ家で、里の馬や犬、鶏などがたびたび食い殺され、子どもでも食われることがあった。村人は、狼群を”千匹群”といって、旅するものの最も警戒するところであった。里人は之を恐れ、中には神として祭る者もあった。小舟山の東、山の神神社の北に狼穴というのがある。穴の中が二メートルの大きさで付近には大小十余の抜け穴がある。文久年間ごろから、この穴にすんでいた狼が子を産んだ時近郷の人は、「狼さまのお坊子なし見舞」といって、握り飯などを持って行っては、恐る恐る穴の中に置いてきたという。」
とあります。
かつてここは狼が棲んでいた草原で、「狼さまのお坊子なし見舞」という祭りも行われていた当時を想像しながら、あらためて風景を眺めてみました。
現在は、山の神神社の周辺には水田が広がっていて、狼穴を探しに行ったときは、稲はすでに刈り取られ、切り株が残っている状態でした。開放的な水田地帯なので、狼が棲んでいたことなど想像できません。しかし旅人として一人で歩いていたら寂しいところではあったかもしれません。特に夜は怖かったでしょう。狼に対しては、畏れと感謝を同時に抱いていた東北の人たちの姿が目に浮かびます。
ふと見ると、田んぼの先を狐が歩いていて、俺に気が付いて杜の中へ消えました。狼はいなくなりましたが、狐はまだいるようです。
狼穴を探しに行って、狐に出会ったという偶然なのですが、俺にとってはけっこう象徴的な出来事でした。
そうか、里では狼よりも狐が目に付くということは、昔もそうだったんだろうなということです。
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