« 2023年3月 | トップページ | 2023年5月 »

2023/04/30

今日からは、二十四節気「穀雨」、七十二候「牡丹華(ぼたんはなさく)」

05_20230428075301

 

七十二候(末侯)は「牡丹華(ぼたんはなさく)」です。

写真は静岡県富士宮市、富士山の見える柚野の棚田で撮影したものですが、葉の様子から、これは残念ながら牡丹ではなくて、芍薬のようです。

 

 

| | コメント (0)

2023/04/28

【犬狼物語 其の六百六十八】 御嶽講

287a4965(武蔵御嶽神社のお犬さま)

287a4904(武蔵御嶽講中の碑)

 

Img_4146(埼玉県さいたま市桜区 田島御嶽神社)

Photo_20230427080701(埼玉県さいたま市桜区 田島御嶽神社)

Photo_20230427080702(埼玉県志木市 羽根倉浅間神社の御嶽神社)

 

狼信仰の関東での2大聖地は、埼玉県秩父市の三峯神社と東京都青梅市の武蔵御嶽神社です。それぞれ三峯講と御嶽講が作られて、昭和初期まで盛んに代参が行われていました。代参というのは、講員の誰か、くじ引きなどによって2~3名が選ばれ、神社に参拝し、祈祷を受け、お札をもらって帰ってきて、講員に配るというものです。

お札は、狼の姿が刷られた「お犬さま」のお札が中心で、家々では戸口に貼っておいたほか、辻札といって、村境などに竹に挟んで立てておくこともあったといいます。

また何十年に一度の一大イベントとして、武蔵御嶽神社で太々神楽を奉納することもあり、そのときには、御嶽山に記念碑を建てたり、お世話になっている御師坊に記念額を奉納したりしました。費用もかかったので、これは一生に一度こととされ、代参ではなくて、講員全員でお参りするのがしきたりでした。

御嶽講・三峯講に関する民俗調査が行われていますが、たとえば『埼玉民俗』第6号には西海賢二氏の「武州御嶽講について 比企郡吉見町流川の場合」(1975年記)、第7号に「武蔵における御岳講の展開 特に埼玉県下を中心にして」(1976年記)、が掲載されています。その中に府県別御嶽講中分布表(明治期各県講社台帳より)というのがありました。

この明治期のリストを見ると、御嶽講も、埼玉県が圧倒的に多かったのがわかります。

全御嶽講中の総数は3485講。このうち埼玉県内には1368講がありました。これは全体の39%に当たります。また、講員数も、総数144974人のうち、埼玉県内の人数は63689人で、全体の44%に当たります。半数とは言えませんが、かなりの数が埼玉県にありました。次に多かったのは909講があった東京です。(ちなみに三峯講は昭和15年の調査によれば、長野県が圧倒的に多く1410講、埼玉県が2位で914講となっています)

また県内でも特に御嶽講が濃密に分布するのは、旧入間郡内(特に川越市・飯能市・入間市周辺)、旧北足立郡内(特に大宮市・朝霞市・和光市・志木市・新座市・桶川市周辺)、旧比企郡内(特に東松山市周辺)、南埼玉郡内だそうです。

どうしてでしょうか?

ここで講と農業との関連が示されています。昭和22年当時の埼玉県下農家人口構成表から、全人口対農家人口の比率をみると、御嶽講が濃密に分布する地帯に高いことがわかります。つまり、御嶽信仰は特に純農村地帯に浸透していったということらしい。これは上尾市の御嶽講・三峯講を調べた時も出てきた傾向です。

御嶽様は作神で、「肥料がなければ御嶽山に参拝しろ」と、よく言われていたそうです。農家にとっては一番頼りになる神さまであったのでしょう。これは三峯信仰も同様で、農家が求めるのは作神だったといいます。

それと比企郡吉見町流川(1975年記)の場合、講が作られたのは100年以上前ですが、理由が4つあげられています。

(一)当地方は狼の害が多く、農民が非常に困ったという。
(二)狐つきが多かった。この狐つきを落として貰うために御嶽の御師に頼んだ。
(三)火事が非常に多かった。
(四)雷神をのがれるため。

以上のような理由で講が作られたといいます。

ところで、代参で毎年2~3人づつお参りして、何年かかかってすべての講員がお参りすると、それを「満講」といって、新しく講を組みなおします。

そのとき、講員が全員で御嶽神社に参詣して太々神楽を奉納するという講社が多いそうです。

各府県の太々神楽の奉納数は、特に東京、埼玉に集中しています。それで興味深い傾向があるそうなのですが、東京の奉納数が多いときは景気が良い状況の年で、埼玉県の奉納数が多いときは、農業の豊作の年ではなく、むしろ不作の年に多いというんですね。

東京では感謝のために神楽を奉納し、埼玉では祈願のために神楽を奉納するということでしょうか。町場と農村の人の御嶽信仰に求めるものの違いが表れているのかもしれません。町場では火災・盗難除けですが、農村では、豊作祈願という違いです。

またこれは埼玉県上尾市の場合です。

『上尾の民俗』には、「三峰講」や「御岳講」の具体的な 話が出てきます。聞き取りが行われたのは平成元年ころなので、大正から昭和にかけての話です。

 御岳講の代参は、大正時代から昭和初期には、上尾から自転車で行っていたというんですね。しかも日帰りの代参もあったというからすごいです。

『上尾の民俗 Ⅱ』(上尾市教育委員会/平成4年)の、戸崎の御岳講の例を引用すると、

「御岳神社を信仰する講で、作神様であるという。二人一組で四月の節供のころの代参であった。御岳には自転車で行ったもので、戸崎から平方に出て川越に渡り、入間川を経由して青梅に入り、ここからは神社までもう少しであった。神社では毎年決まった御師の世話になる。御師はOといい、現在のケーブルカーの下の駅の近くである。御岳に着くとまず御師「代参できました」といって荷物を置いて神社を参拝する。参拝から帰ると御師の家の中に祀ってある神社で御師が中心になって祭典を行ない、いただいて帰るお札やツツガユの紙を揃えてもらう。このときに、御師にはお札料と宿泊費を払うが、金額は提示されず、適当な金額を払うと、これに応じた賄いをしてくれる」

ツツガユ(筒粥)とは、その年一年の作物の出来の予測が書いてある占で、これを見て、「今年はコク(収穫量)がありそうだ」とか「今年はオカブ(陸稲)がだめだから、照りそうだ」などと話していたそうです。

上尾から御岳まで何kmあるのでしょうか。調べたら片道64kmありました。時速12kmとしても5時間半。行きは緩やかな登りできつかったが、帰りは楽だったとありますが、自転車往復が11時間とは、想像しただけでも「遠い」ですね。

俺も中国雲南省の麗江で、ナシ族の村へは片道10kmを自転車で行っていましたが、80年代の中国の自転車は、それこそ車体もペダルも意地悪いくらいに重くて、玉龍雪山へ向かう緩やかな上り坂と向かい風には死ぬような思いをしたので、それを思い出してしまいます。日本だって昔の自転車は重かったろうし、道だって舗装していないところも多かったのではないでしょうか。たぶん、日帰りの場合は、夜明け前3時ころには出発しなければならなかったのではないかなと思います。

そんな苦労をしてまでも、行きたい、いや、行かなければならないという当時の農民の心情を想像してしまいます。御岳までの日帰りの「旅」も、講員の思いを引き受け、くじで選ばれたという責任感や義務感に支えられた、単に物見遊山ではない苦労が偲ばれます。

とはいえ一方では、農作業が始まる前の春先、一日だけではあっても御岳までの「旅」はそれなりに楽しかったのかもしれません。村を出たことがない若者にとって、外の世界を知る絶好の機会でもあります。『上尾の民俗』を読むと、事実リクエーション的要素もあったらしいのです。

御岳では、いつも同じ御師にお世話になっていたようです。地域の担当が決まっていて、秋、冬には同じ御師が集落を周ってお札を配ることもありました。調査の中で、多の人が御師の名前を出していますが、すべてOさんです。

写真は、武蔵御嶽神社のお犬さまと講中の記念碑と、さいたま市、志木市の狼像です。 

さいたま市桜区の田島御嶽神社は、もともとは「御嶽(おんたけ)信仰」で、お犬さまの姿はない場合が多いのですが、ここでは個人的に武蔵御嶽神社の崇敬者でもあって、社殿を新しくした際、武蔵御嶽神社のお犬さまを欄間に置いたとのことでした。そう言われてみれば、彫刻は、武蔵御嶽神社のお札にあるお犬さまの姿に似ています。

また、志木市の羽根倉浅間神社の御嶽神社のお犬さま像はお札といっしょに祀ってありました。

 

| | コメント (0)

2023/04/27

【犬狼物語 其の六百六十七】カピトリーノの雌狼像の「怪我」の謎

171124_3

 

Funa0lpamaa7o1lFunczzaqaefmh

 

前から気になっていた謎が解ける?

https://twitter.com/RomeBeyond/status/1649297803221385216 

ローマ市にあるカピトリーノの雌狼像が回転する動画があったので見たら、右後ろ足の「怪我の表現」はこれにもありましたが、じゃっかん違います。

これと味の素スタジアムのレプリカを比べてみました。

レプリカにはこのように「骨」のようなものが見えたので俺は「怪我の表現」と言ってきましたが、それが間違いかもと思いました。

ふたつを比べてみます。(上:味の素スタジアム。下:ローマ)

これは「怪我の表現」ではなくて、単に「破損」しただけではないかと。

その「破損」自体も古い時代のものだろうし、レプリカも忠実に「破損」を再現しただけ? そういうことでしょうか?

 

 

| | コメント (0)

2023/04/26

【犬狼物語 其の六百六十六】愛知県新城市 作手白鳥宮下の白鳥神社

287a0827

287a0834

287a0847

287a0840

287a0814_20230425071601

作手周辺に鎮座する11の白鳥神社の一社。作手白鳥宮下の白鳥神社です。

白鳥神社は日本武尊の伝説の神社だそうで、作手清岳の石像同様、これも日本武尊にちなむもののようです。

あ・うんの像が社殿前に、向かい合うように控えています。両方とも垂れ耳で、体つきは丸みを帯びて、狼というより犬の姿に近いかもしれません。

前足の間の文字が読めそうで微妙に読めません。おそらく奉納年などが彫られていたのだと思います。

 

 

 

 

| | コメント (0)

2023/04/25

今日からは、二十四節気「穀雨」、七十二候「霜止出苗(しもやんでなえいずる)」

160425

 

 

今日からは、二十四節気「穀雨」、七十二候「霜止出苗(しもやんでなえいずる)」です。

霜が降りるのが終わって苗が生長するころです。

写真は植えられたばかりの苗ですが、時期は「霜止出苗」の1週間後、5月上旬撮影したものです。

 

 

| | コメント (0)

2023/04/22

【犬狼物語 其の六百六十五】愛知県新城市 作手清岳の白鳥神社

287a0765

287a0772

 287a0758

287a0755

最近、写真展がらみの話題が多くなっていましたが、【犬狼物語】に戻ります。

道路から階段を上ったところの両側に、向かい合って控えている狼像があります。「あ」形は、奥歯を噛みしめるような姿で、牙が覗いています。「うん」形は、耳も垂れ、おだやかな表情です。

現在、武蔵御嶽神社で開催中の写真展『おいぬさまの肖像』では、この「あ」形の狼像の全身の姿を展示しています。

安永4年(1775)奉納のこの狼像は、日本武尊にちなむものらしい。白鳥神社は日本武尊の伝説の神社だそうで、作手周辺には白鳥神社が11社が点在しています。

またここには、古宮城跡が残っています。解説看板によると、武田軍の最前線基地として元亀3年(ネットには元亀2年ともある)に武田信玄が築城しましたが、2年後、奥平徳川連合軍の攻撃により陥落しました。

神社社殿の右側にある登城道を上っていくと古宮城の最高地点、主郭に至ります。地元の人たちによって管理され、戦国時代の城郭がほぼ完全な状態で残された、貴重な史跡のひとつになっています。

 

 

| | コメント (0)

2023/04/20

今日から二十四節気「穀雨(こくう)」、七十二候「葭始生(あしはじめてしょうず)」

04287a0081

今日から二十四節気「穀雨」、初侯「葭始生」です。

百穀を潤す春に降る雨のことを「穀雨」といいます。田んぼではそろそろ水が張られて田植えの準備が始まるころです。

写真は、福井県小浜市の「田烏の棚田」です。

 

 

| | コメント (0)

2023/04/18

お犬(狼)さま信仰の新しい意味

Img_2853_20230418082001

 

全国の犬像の写真を撮り始めて以来、犬と狼を行ったり来たりしていますが、オオカミとイヌを新しい物語で語れないものか、「お犬さま信仰」の新しい意味はなんなのか、考え中です。昨日ブログで語った「プチ神隠し」との関係はあくまでも俺の個人的な狼信仰ですが、今日は、もっと一般的な狼信仰の話です。

先日の、NHK「ダーウィンが来た!」を見て、日本においてはニホンオオカミとイヌとの境目が想像以上に無いというか、あいまいというか、これまで漠然と感じていたことの理由がわかったような気がします。

タイプ標本さえイヌとの交雑種だったんだから、昔の日本人が遭遇していたオオカミも交雑種が多かったのかもしれません。それは『オオカミは大神』でも書いていたことです。番組を見て確信しました。

でも、俺は生物学的な狼とな別に、信仰上の狼の曖昧さは嫌いではありません。むしろ日本の特徴でもあるわけで、決してマイナスイメージではないです。

このオオカミとイヌの曖昧さを含んだ、曖昧さを許してくれるいい言葉があるではないですか。「お犬さま」です。

実際狼信仰について知っている人は、お犬さまがオオカミであることを知っていますが、一般的な人は、犬のことだと思うだろうし、どっちにでも取れるというのはすばらしい言葉だと思います。

「お犬さま信仰」は、現実にオオカミは絶滅したといわれて久しいし、害獣を防いでくれる益獣としての役割は終わっています。

だからこのままいくと、「お犬さま信仰」は過去の「文化遺産」になりかねないのです。ただ、生きた信仰であれば、これからも続いていくでしょう。この文化を廃れさせてしまうのは、もったいないと思うからです。

だから、次はなにか?というのが大切です。俺の関心もここにあります。

現代的な意味が付け足されれば、お犬さま信仰は続くはずです。過去は大切ですが、未来も大切です。

もともとお犬さまの、害獣を防いでくれるとか、泥棒、火災を防いでくれるとか、狐憑きを治すのに効果があるとか、コレラに効くとか、そういったご利益は、その時代時代に、人々の意識的・無意識的な願望が作り上げたお犬さまに対する物語であったわけです。だから時代とともに、その願望が変わってくるのは当然だし、お犬さまの意義・意味も変わってくるのは当然なことなのではないでしょうか。

 そこですでに何度か紹介しているふたつの事例が、狼信仰の未来を感じさせるものとして注目されます。

ひとつは、武蔵御嶽神社の犬のご祈祷です。さっきも書きましたが、「お犬さま」と聞いて、狼信仰のことを知っている人であればそれは「狼」を意味し、知らない人であれば「犬」を意味します。「狼」「犬」どっちにもとれる「お犬さま」という言葉自体に、俺はすごさを感じるのですが、そこを逆手にとって、狼だけではなく、犬までも受け入れて行こうとする武蔵御嶽神社の取り組みには、時代の先見性を感じます。

神社関係者によると、犬のご祈祷を始めた当初は不安だったと言います。批判も覚悟したようです。

もともと犬は不浄なものとして、神社とはあまり相性がよくなく、今でも、犬が境内に入ることが禁止されている神社は多いです。お犬さま信仰の総本山ともいえる秩父の三峯神社も、前は犬連れOKでしたが、何年か前から犬連れ禁止になってしまいました。いろんな事情はあるのでしょうが、残念なことです。 

これは時代の流れでもあるのですが、ここまで犬が家族同然となっているのに、わざわざ犬を禁止する意味がどこにあるのでしょうか。たとえば「子供禁止」とか言い出したら大バッシングを受けるでしょう。でも今は「犬」なら平気だというのは、ちょっと遅れているのかもしれません。もちろん、俺も初めは犬嫌い(犬恐怖症)だった立場から、犬嫌いの人の気持ちもわからないでもありませんが、時代は確実に変わっています。

そしてもうひとつ。これも何度も紹介している、山梨県丹波山村の取り組みです。七ツ石神社の再建プロジェクトというのがあって、数年前から経緯を見させてもらってきましたが、無事にお宮とお犬さま像が再建補修され、文化財にも登録され、狼信仰が村おこしに一役も二役もかっています。このあたり、お犬さま信仰が村おこしと結びつくということに新しさを感じます。

他にもありますが、要するに、狼信仰が現在進行形であるこが大事なんだと思います。もったいないではないですか。今まで続けられてきた狼信仰という、狼を象徴とした、動物(人も含む)、自然環境との関係を考えるきっかけを与えてくれるものは、これからも続いていくことを願っています。

 

 

| | コメント (0)

2023/04/17

狼信仰とプチ神隠し

Img_2102

狼像や狼信仰に興味が出てからほぼ10数年。何がそんなに俺を引き付けるのだろうと考えてきました。でも、なかなかその本質にたどり着くのは容易ではありません。理屈をつけて理解しようとすればするほど、本質から遠ざかってしまうようなもどかしさを感じます。

ただ、あることを思い出しました。そしてその体験の感覚が、狼像の前に立ったときの感覚と似ているというか、通じるものがあることに気がついたのです。

その体験というのは、子供のころの体験です。放課後、笹船を作って、小川に流して友人と競漕しました。

ほんとに子供というのは、何かに夢中になってしまうと時間が経つのも忘れてしまうようです。笹船に声援を送りながら小川に沿って下流へ下流へと歩き続けたのです。

笹船の競漕などは決着はつかないものです。どこかでやめなければ、どこまでも下流へ歩いてしまいます。そのうち、子供としての行動範囲を抜け出してしまったようです。そして気がつくと、あたりは真っ暗になっています。

あたりの暗さに気がついて、急に怖くなりました。空にはもうすでに星が瞬いています。

あたりを見回しても、今まで来たことのない景色です。どうして「こんなに遠くまで来てしまったのだろう」と少し後悔します。

俺たちは笹船が闇に消えていくのを惜しみながらも、上流へと帰りました。川沿いに戻れば迷子になることはないと、子供ながらに思ったのかもしれません。

その後どうしたか記憶にはありませんが、家で叱られた記憶もないので、それほど大げさにはならなかったのだろうと思います。そういう時代でもあったのでしょう。

今ならどうでしょうか。暗くなっても子供が帰らないと大騒ぎになるかもしれません。

ちょっとした神隠しに遭ったようなもの。こういう状態を「プチ神隠し」と言ってもいいかもしれません。半分「異界」に行っていたと言えるかもしれません。

「物語」を調べている中で、赤坂憲雄編『物語という回路』の中の「龍潭譚考 神隠しをめぐる精神史的考察」に、こうありました。

「神隠しは天狗・鬼・山男など隠し神にバリエーションはあれ、ある超自然」的なモノによってどこか異世界へと子どもや女が連れ去られる、不思議な現象として体験されてきた。」「鏡花の「「龍潭譚」という短編小説は、神隠しを主題とした傑作として知られる。小さな、しかし、まさに傑作である。すくなくとも、これほどに生きられた神隠し体験をみごとに描き切った小説を、私は知らない。映像の世界における、ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』に匹敵するとでもいえようか。ジャンルこそ異なれ、この『ミツバチのささやき』と「龍潭譚」は神隠しを描いた傑作として、双璧をなすはず」

ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』は3度ほど観ました。

主人公アナが、フランケンシュタインと遭遇したときの表情には、ぞくぞくっとしますね。これ、芝居でしょうか。

そうか、『ミツバチのささやき』は、「神隠しの話」という観方もあったのかと。

映画では子どもたちの遊びの様子が描かれています。

焚火の火の上を飛び越したり、線路に耳を当てて列車が来るのを待ったり、危険なことをやるのが子供たち。いや「危険」と判ずるのは大人たちの基準であって、子供たちにはそもそもそんな基準はないんじゃないでしょうか。おもしろそうだからやる、それだけです。

同じような感覚はTVドラマ『北の国から』にもあります。覚えているのはこのシーンです。このことは以前書籍でも触れています。

夜の森で純、蛍、正吉の3人がUFOと遭遇し、分校の先生が「365歩のマーチ」を歌いながら現れ、先生は宇宙人かもと疑い、暗い森を逃げ帰るシーンがあります。子どもの目線で語られるそのエピソードが好きです。不思議な話のままで終わるのがまたいいですね。怖いけど魅かれる感じが良く出ているシーンだと思います。

「危険」と思うのは、やっぱり経験や知恵がついて大人になってしまったからで、子供にとって、危なさや、危なさに通じる向こう側の世界は、こっち側とはつながっている世界であるのでしょう。

大人になるとそのふたつの世界が断絶してしまうのかもしれません。だから子供は動物に近いといえるかもしれません。

『ミツバチのささやき』でフランケンシュタインが現れても、それなりに受け入れてしまう。異界のものに無防備です。だから、主人公アナは「逃亡者(脱走兵だっか犯罪者だったか)」に対しても、恐れることもなく近づき、親切にします。それはお母さんの教えでもありました。

精霊は、良い人には良いもので、悪い人には悪いものと、お母さんはアナに教えるのです。「逃亡者」はアナにとっては異界から訪れた精霊なのでしょう。そして精霊は、自分自身の心のありようでもあるのですね。「良いもの」であろうとするところに、子どもの純真さを感じます。

泉鏡花の『龍潭譚』でも主人公千里が異界で不思議な体験をして帰ってくると、大人たちが「気のへんになった者としてみな私に応対」したのです。異界での体験を信じようとせず、気が狂った、狐が憑いたで済ませてしまう。千里は、その無理解さに腹をたて、また異界へ戻りたいと思ってしまう。

異界と現実の断絶が、子供にとっては理解できません。大人たちが守ろうとしているのは、目に見える現実世界の秩序でしょうか。じゃないと、この世界はめちゃくちゃになると怖れてでもいるように。

動物(狼)も、子供も、わかっているんでしょうね。世界は、こっちとあっち、両方あってひとつの世界だと。こっちとあっちを行き来できるのが、動物(狼)であり、子供なんだと思います。

俺が狼信仰に感じるのは、そこらへんです。どこらへん?と言われてしまいそうですが。

 

 

 

| | コメント (0)

2023/04/15

武蔵御嶽神社宝物殿展示予定のお犬(狼)さまのお札

Photo_20230415070401

 

武蔵御嶽神社の大口真神式年祭に合わせ、神楽殿では写真展『おいぬさまの肖像』が開催中ですが、宝物殿では15日から、日本各地のお犬(狼)さまのお札が展示される予定です。

一気に全部、ではなく、何度かに分けて、来年まで展示されるそうです。

それで、お札の一覧と地図を作りました。もちろんこれですべて(現在授与中)のお札ではなく、俺が今まで実際に参拝していただいたものだけです。

お祭りにしか授与していないものとか、氏子だけに授与しているお札もあるので、全部そろえるには、まだまだ時間がかかります。

それでも、こうして地図にしてみると、お札も日本各地に点在しているのがわかります。北海道と九州のお札はまだいただいていませんが、狼信仰にかかわる狼のお札が東日本だけではなく、ある程度全国的なものだとわかります。もちろん現在、お札の密度が一番濃いのは埼玉県を中心にした関東地方ではあるのは言うまでもないですが。

 人の想像力って面白いなあと思います。狼をモチーフにした意匠のバリエーションの豊富さには驚ろきます。

| | コメント (0)

2023/04/12

今話題のチャットGPTと脳

Vino2022_wolf_statue_in_the_forest_miste(これはAIに描かせた「森の狼像」)

今話題のChatGPT。

自分のことや「オオカミ信仰」「お犬さま」などを尋ねました。

「青柳健二」は、俳優・声優で『HERO』、『相棒』にも出演しているそうです。誕生日も違うので、その日を調べても、該当する俳優どころか、日本での有名人はいません。

本当の自分にまったくかすりもしないのが少し悲しい。それだけ有名じゃない、ということの証でもあるんでしょう。ただ、俺は個人情報はあまりネットに載せないようにずっと前から注意してきました。そういうことが少し幸いしているのかもしれません。

「おいぬさま」ついて聞いてみたら、

「「おいぬさま」という言葉は、一般的には「おいしい犬」という意味ではなく、可愛らしい表現として用いられることがあります。」

だそうです。以下略します。というか、問題外な答えです。

「お犬さま」とか「オイヌサマ」と字面を変えて聞いてみても、まったく、オオカミに関係する答えは、いまのところ出ませんでした。「今のところ」と書いたのは、AIは学習していくらしいので、そのうち完璧な答えになるかもしれません。

ところで、恐竜は体を大きく(食われないように)することで生き残りをかけました。でも、大きさは限界がないかというと、そんなことはなく、物理的にも、ある程度大きくなったらそれ以上大きくなることはできません。

人間の脳がほかの動物と比べて体重の割には巨大なのは、複雑な社会生活での問題を解決するためだとする説があります。これを「社会的知性仮説」と呼びます。

哺乳類は、脳を大きくすることで生き残ってきました。究極はこのように人間の脳ですが、脳についても、恐竜の体と同じように、大きさに限界があるようです。

本など、アナログなものも昔からありましたが、コンピュータが出て来て依頼、脳の機能は急速に自分の外部ににも置かれ始めました。そしてChatGPTなどが出てくると、今が、脳の大きさの限界点かなとも思います。

これからは人間の脳は少しづつ小さく「進化」していかざるをえないのかもしれません。つくづく、ヴィーノを見て、「ヴィーノは幸せだなぁ」とか言ってきましたが、われわれ人間も、ヴィーノくらいの脳に戻っていくのかもしれません。 

ChatGPTは、今のところ日本語では、抽象的なものなどは得意らしいですが、「青柳健二」「お犬さま」など、具体的情報にはまだまだ弱い部分があって使えないですね。 

 でもこれもだんだん学習していって、完璧なものになっていくんでしょう。そのとき、人間の存在意義はどこにあるのか。

人間が得意なのは、失敗、思い込み、嫉妬、妬み、不公平さ、差別、先入観、騙しなどでしょうか。今まで「負」とされていた人間の性質が、一番人間らしさに変わる日も近いのかもしれません。 

 

| | コメント (0)

2023/04/05

写真展「おいぬさまの肖像」と「わんちゃん大祭」

Img_5090

Fs54ok1aqaa2gql

 

Fs54tl3ayams8ym

Fs54tljagaarax

 

昨日も武蔵御嶽神社 へ行ってきました。

4月中旬以降、宝物殿に展示される予定の追加の「狼のお札」を神社へお渡しし、写真展会場には、サンプルとして『オオカミは大神 弐』を置かせてもらいました。このくらいは宣伝させてもらいます。社務所で販売中です。

なお写真展会場(神楽殿)内の撮影、SNSへのアップはOKです。

また、式年祭期間中の戌の日、4/22、5/16には「わんちゃん大祭」が執り行われます。

ケーブルカーにもペット共有エリア(鳥もOKらしい)が設けられているので、歩けない老犬などはケーブルカーで登れます。

ただし、その先には、急坂と階段が待っています。「わんちゃん大祭」にヴィーノも参列したかったのですが、昨日、上った感じからして、今のヴィーノには難しそうなので大祭は諦めるしかなさそうです。

10年前はヴィーノも階段を上ったんですが。(ヴィーノというより、我々夫婦の体力の問題か?)

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

« 2023年3月 | トップページ | 2023年5月 »