心の処方箋である昔話や伝説
イメージの活用を目的に心理学を始めたのでしたが、ユング心理学は、『犬狼物語』の原稿を書くにあたって、犬像・狼像にまつわる昔話や伝説が、残るべくして残ったという視点を与えてもらったのは良かったと思います。
狼の喉からトゲを取ってあげたら狼に感謝されて獲物をもらったとか、犬の首が宙を飛び大蛇に嚙みついて殺して主人を助けたとか、犬が少女の身代わりで怪物と闘ったとか、これを「事実」と捉えたら、単なる荒唐無稽な「嘘」になってしまいます。
ところが視点を変えて、この「嘘」こそが、人間の心が生み出した、何物かの表現であると考えるわけですね。「夢と似ている」と言えばわかりやすいかもしれません。俺たちが観ている夢も、覚醒時の現実世界では、「嘘」になってしまいますが、「夢は嘘だ」なんて言っても、まったく意味がないのと同じです。
昔話、伝説、神話は、夢と似ているのです。人間が共通して持っている集合的無意識の反映とも言えます。しかも、これはある時期から固定してしまった「化石」ではなく、今現在も刻々と変化している「生もの」だということです。
とくに伝説は過去の事実がそのまま伝わることもあるでしょうが、その話が地元の人にとって何か有益なことがあれば、尾ひれがついて、変わっていくということは考えられることです。反対に不利益があったら削られていくということも同様です。
心理学者・大場登著『精神分析とユング心理学』には、神話について、
「その国・その文化圏の人々の心が一致して「受け入れてきた」、その意味で個人を超えた、文化的、あるいは普遍的な「世界観」の表現とみることもできる。人々の心によって受容されないものが歴史を超えて残り続けることはほほとんどありえない」
と言っています。伝説は神話より、もっと具体的な物語ですが、残り方としては同じではないでしょうか。
今も、刻々と伝説が変わっている現場を目撃しました。筑後市の「羽犬」の伝説です。伝説をしらべてみると、「秀吉の愛犬」というのと「秀吉を阻む暴犬」とのふたつの伝説が伝わっています。この両極端な伝説は何を意味するのでしょうか。
秀吉も信長同様、鷹狩りを好んだそうで、鷹狩用の犬である「鷹犬」(まさに鳥と犬の合体した「羽犬」のイメージ)は「御犬」と呼んで大事にされましたが、反対に、野犬は殺されて鷹の餌にされたという話があります。犬の運命は天国と地獄の、両極端の開きがあったんですね。そういった犬の祟りを恐れて犬塚を作り、供養したのかもしれません。そして気持ちを落ち着かせてくれるような物語を語り始めた。このなかに悲惨な餌になった犬の話はありませんが、両極端な羽犬の伝説には、人々の苦悩というか、葛藤が現れているように感じます。
さらに、のちの時代には、羽犬が死んだ原因が、「病死」と「弓で射られた」とふたつできたようです。
微妙な違いかもしれませんが、「病死」の方が加害者を作らず穏便に済むからかなぁと思います。「弓で射られた」となれば、「誰が?」ということが問題になってきます。
物事にはかならず両面性があり、それをどっち側から見るかで、物語も変わってきます。
それと、こういうこともあります。最近は、桃太郎の「鬼退治」も「不公平で、可哀そうだ」との意見が出てきて物語が変わってきているという話も聞きます。
数年前、高崎市のだるま市のことが話題になったときがあって、だるま市を開いていた少林山達磨寺と、業者の方でトラブルがあり、それと連動するように、市のHPから、今まで達磨寺に伝わっていた伝説が消え、「新説」に置き換わってしまったというのです。自分のブログから2016年~17年の話だったとわかりましたが、トラブルについては、こちらに載っています。
https://www.sankei.com/article/20161222-DW4DKCMDSVIGRNI7GE5G4C7PXY/
具体的にどのような伝説か、忘れてしまいました。でも、あぁ、こういうことで伝説がひっくり返されるんだなと妙に納得したことをおぼえています。
昔話や伝説は流動的なものではないでしょうか。「生きている」と言えるわけです。
昔話や伝説は、化石のような過去の遺物ではけっしてないということ。昔話や伝説は刻々と変化して、必要な人にとっての、心の処方箋になっているのかもしれません。人間には物語が必要なようです。
ただし、注意が必要なのは、高崎市のように、簡単に変えられてしまう(しかも公権力によって)こともあり、ある意味、怖いことでもあります。公権力が都合のいいように、あるいは、人々に耳障りがいいような物語を語り始めるということもないとは言えません。
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