【犬狼物語 其の六百八十二】渡来系弥生人と狼信仰
縄文人の後で大陸から入ってきた弥生人との混血によって現代日本人が作られたという「二重構造モデル」。
東南アジアから北上した2集団のうち、海岸沿いに北上して日本列島に入ったのが旧石器人、後に縄文人。そしてそのとき日本には入らず、内陸側を北上した集団は、やがて寒冷地適応をうけて東北アジアの旧石器人に。
その後、この集団の一部が朝鮮半島から日本(九州北部)に入ってきました。それが渡来系弥生人です。今のところ、長江流域の古人骨の分析が行われていないので、稲作をもたらした集団が、この東北アジアの旧石器人とどのようなつながりがあるかわかりませんが、ふたつの集団は、朝鮮半島付近でいっしょになり、渡来系弥生人として日本に渡って来たと考えるのが、今のところ妥当であるらしい。
そこで以前紹介した書籍『人類の起源』の中で気になったのが次の地図です。各都道府県によってどれだけ縄文人の痕跡の濃度に差があるか、というものですが、近畿地方と四国地方や中国地方の瀬戸内海側で、一番縄文人の痕跡が少ない、つまり逆に言えば、一番弥生人的であるということが興味をひきます。
DNA解析から、この渡来系弥生人の流入の数は考えられていた以上に多かったのではないかという話です。その人たちが日本に稲作や金属器を伝えました。もしかしたら「狼信仰」もあったのでは?という話になってくるわけですね。
日本の狼信仰のルーツを考えたとき、日本で自然発生的に始まった説と、大陸から伝わった伝播説とあるかもしれませんが、どちらか一方、というのではなくて、両方あるんだろうと思います。どちらにしても、狼という恐ろしくも強く気高いものに接したときの、人間が共通して持った畏怖の気持ち。これが狼信仰の原点かなと思うので。
それはそうと、四国に渡来系弥生人の痕跡が多いことに興味を持つのは、香川県の神社に祀られている狼像が、狼信仰を持っていた渡来人の末裔の影響だったらしいという話を聞いているからです。
それは香川県さぬき市に鎮座する津田・八幡宮(津田石清水八幡宮)です。ここには狛狼像が1対あります。わざわざこの石像は狼像であると表示してあります。
その由来、正確にはわかりませんが(資料などは焼失)、宮司や郷土史家の話では、神社は1600年に現在地に遷座したのですが、元あった社には狼像があったそうです。渡来系の末裔たちが住んでいた地域で、地元民とのいさかいを極力避けるため、山犬を番犬化して使っていたそうです。そのなごりで元社にも狼像が置かれたとのこと。
四国ではこの1件だけだし、大和政権に請われて来た渡来系の人たちなので、弥生時代初期の話ではありません。なので、渡来系弥生人が本当に狼信仰を持ってやってきたかはわかりませんが(文化・信仰の伝達はひとりでもできるので)、少なくとも、そういう例があったということはひとつ参考になるかなと思います。
それとこれは近畿ですが、『欽明天皇紀』(540年)に、秦大津父が喧嘩をしていた二頭の狼に出会い「あなたは貴い神で、荒々しい行いを好まれます。もし猟師に会えば、たちまち捕獲されるでしょう」といって仲裁をしたところ、天皇は夢を見て秦大津父を捜し出し、大蔵大臣に取り立てました。これは秦氏が狼信仰を持っていたとされる記述で、いろんな媒体にたびたび引用されています。この秦氏は中国系渡来氏族とされます。(なお、秦氏は稲荷信仰ともかかわります)
現在の狼信仰の濃度と、この弥生人痕跡の濃度は、反比例しているじゃないか、という人もいるかもしれません。たしかに西日本では、江戸・明治時代に盛んになった木野山信仰や賢見信仰などを別にすれば、東日本と比べてあまり狼信仰の痕跡は濃くないというのが印象としてあります。
でも、文化の中心地から波のように周辺に伝播していき、中心地ではその文化が逆に薄れてくるという状況は、他にも見られて、柳田が唱えた「方言周圏論」は、言葉の話ですが、文化一般にも当てはまるような気がします。
西日本を旅して、狼信仰については東日本ほどはっきりしたイメージがなく、もやもやっとしているんですが、話を聞いてみると、めちゃくちゃ歴史が古いということがあって、この周圏論は、説得力を持ちます。つまり古い文化は、周辺に残るということを実感するのです。
すでに書いているように、もちろん、縄文時代の遺跡から発掘された遺物にも狼信仰の痕跡をうかがわせるものがあるので、縄文時代には、すでに何等かの狼信仰的なものはあったと想像できます。弥生時代に関してもそうです。だから、日本の狼信仰のルーツを考えた場合、いろんなパターンがあるのだろうと想像するしかありません。渡来系弥生人がもたらした狼信仰もそのひとつでしょう。
| 固定リンク
コメント