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2024/02/28

【犬狼物語 其の七百三十三】「狼の眉毛」と「遠野物語拾遺」

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狼や犬には不思議な力があると信じられていました。

狼の民話にはいくつか有名なものがありますが、この「狼の眉毛」も狼の能力を示す民話のひとつです。

ここでは稲田浩二・稲田和子編著『日本民話百選』から広島県雙三郡に伝わる「狼の眉毛」を要約します。

あるところにひどい貧乏人の男がいて、いっそ狼に食われて死のうと思い、山へ行き「狼ども、食うてくだされ」と叫ぶと、何匹か集まってきて、そのうちの一匹が男に言った。「なんぼう『食え、食え』言うたって、ここにはお前を食う狼はおらん。お前は真人間じゃ、狼にはそれがよくわかるのじゃ。お前に狼の眉毛をやろう。これがあればひもじい目に会うことはない」と言い、眉毛を引き抜いてくれて山奥へ帰っていった。男がある村で田植えをやっているところを、眉毛をかざしてみたら、たくさんの早乙女は、猫やら鶏やら山犬やらの動物だった。真人間はめったにおるもんではないなぁとあきれていると、田の持ち主が来て「わしにも狼の眉毛を貸してくれ」と頼んだが、「狼が『どんなことがあっても人の手に渡しちゃあいけん』と言うたので、いやじゃ」と断ると、主人は立派な自分の家に連れていった。「わしはもう隠居したい。お前はほんとうの人間だと知ったから、この家の跡を継いでもらう気になった」と言う。それからというものは、狼の言ったとおり、ひもじい思いをしたことはなかったと。

これは霊力を持った狼が真実を見抜き人を守ってくれるという話ですが、次に、『遠野物語拾遺』の71話、盗賊を見抜くお犬さま(狼・三峰様)の話が出てきます。

栃内の和野の佐々木芳太郎という家で、誰かに綿カセを盗まれたことがあったそうで、その犯人捜しのために衣川(岩手県奥州市の衣川三峰神社)から三峰様を借りてきて、暗い奥の座敷に祀り、村人がひとりひとり拝みに行くのだが、ある女は手足が震え、血を吐いて倒れた。そして女は盗んだものを村人の前に差し出したという。

真実を見通す三峰様の話です。現代なら「なにをばかな」ということになるかもしれませんが、当時は三峰様のご神徳を信じていたので、犯人は、恐ろしくなり、自ら盗みを認めたということなのでしょう。(余談ですが、あるいは、三峰様のご宣託ということで、女が犯人に仕立てあげられ、村のいさかいをこれ以上大きくしないために、女は犠牲になったのかもしれませんが)

お犬さま(狼)のご神徳に、火災除け、盗難除けがあります。異常事態(火災や盗賊)をすばやく察知して人に知らせるところは、犬を番犬としてきたことからもよくわかります。犬の優れた能力のひとつと言えます。

実際火事を知らせた忠犬の話が複数あります。草津市の眞教寺には"白"が、寺の火事を知らせ大事に至らなかったという忠犬の伝説があるし、太田市の普門寺の"もん"も火事を知らせた犬でした。

狼や犬に不思議な力があると信じていたのは、たんなる想像ではなくて、ある意味、狼や犬に備わった実際の知覚能力の高さに由来するものでもあったでしょう。人間は自分たちにはないその犬の知覚の鋭さを必要としたのです。頼ったのです。(犬を飼ったからホモサピエンスが生き残ったという説があるくらいです)

犬がそうなんだから神に近い狼はもっと鋭いだろうし、「真実を見抜く」というご神徳にまで高められたのは無理な発想ではなかったと思います。

 

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2024/02/26

群馬県甘楽町 石仏の里

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甘楽町の沢に迷い込んで出会った石仏の里。多くの種類の石仏が点在していました。 

 知識がないので、それぞれがどのような石仏かわからないものもたくさん。でも里全体の雰囲気は楽しめます。

ちなみに「甘楽」とは、「 古代には「甘良郡」として『続日本紀』和銅4年(711年)に登場する。韓からの渡来人が多く住んだことから、「から」が変化して「かんら」となったと考えられる。」(wikiより)

 

 

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2024/02/25

【犬狼物語 其の七百三十二】長野県佐久市 考勇亀松墓

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松林の中に「孝勇亀松墓」と書かれた一基の墓碑が立っています。

亀松というのは、オオカミに襲われた父親を助けた11歳の少年です。1788年9月25日夕の出来事でした。

当時、田畑を荒らす害獣が多かったので、番小屋を作って村民が交替で農作物を守っていました。 

その日、番小屋に詰める亀松の父親にオオカミが噛みつきました。父親の叫び声を聞いて駆けつけた亀松は、鎌を狼の口にさしこんで引張っりましたが柄が折れてしまったので父親の鎌をとってようやく引きはなすと、今度はオオカミは亀松に向ってきました。両手親指をオオカミの眼に突込んでえぐり、つまずいたところをめった打ちにして倒し父親を助けました。

この事件は将軍の耳に入り亀松は江戸まで召出されて賞を受けました。

明治時代になってから、亀松の武勇伝は小学校の修身の教科書に載るようになります。孝行息子の模範として全国津々浦々にまで亀松少年の話が知れ渡るようになったのです。そこで郷里の人々が力を合わせて顕彰の「孝勇亀松墓」の碑を建てました。碑面の題辞は勝海舟が書いています。

 

 

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2024/02/24

【犬狼物語 其の七百三十一】『絶滅したオオカミの物語 イギリス・アイルランド・日本』

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志村真幸・渡辺洋子著『絶滅したオオカミの物語』を読みました。サブタイトルに「イギリス・アイルランド・日本」とあり、それぞれの国でどのようにオオカミが絶滅したか、3国を比較しながら書かれていてわかりやすい。

とくに、アイルランドとイギリスは、オオカミについては対照的な考えがあって、アイルランドは、古いケルト文化の影響もあり、日本と似ている部分も感じます。

ケルトについては以前から気になっていて、とくにケルト音楽は比較的よく聴いているし、あるオーストリアのケルト遺跡が、まるで日本の神社を思い起させるようなたたずまいに、日本と何か通じるものがあると思っていました。

それと、ローマから離れた遠い島国のアイルランド。一方、中華文明から遠い島国の日本。地理的な類似性からも、どちらにも古い文化が残りやすい共通項があったようです。

よく、西洋と日本は対比されて論じられますが、キリスト教が入る前の西洋は、共通するところが多いようにも思います。いや、西洋というのではなくて、これはもっと人類共通の、原初的なアニミズム的な宗教感なのかなとも思います。もちろん、地域差はあって、見た目はだいぶ違うのですが。

オオカミの絶滅に関する研究として現在も参照される一冊となっているというジェイムズ・ハーティング(1841~1928年)の『ブリテンの動物たち』によると、

「オオカミは、イングランドではヘンリー七世治下(1485~1509年)、スコットランドでは1743年、アイルランドでは1770年(もしくは1766年)に絶滅したとハーティングは結論づける。絶滅の正確な年代については、ハーティング以降も多くの研究がなされ、イングランドはヘンリー七世治下ということで意見が一致しているが、スコットランド、アイルランドについては、現在でも確定できていない。」

ということらしい。イングランドでは15世紀にはオオカミはいなくなっていたようです。イングランドの風景ですが、危険動物を人的に排除したある意味、人間の理想国土を作り上げたということなのでしょう。

それと比べると、スコットランド1743年、アイルランド1770年と、絶滅時期は遅れますが、日本ではちょうど狼信仰が盛んになった時期です。それから百数十年後、日本でも結局オオカミが絶滅してしまいました。

こうしてみてくると、時間差はありますが、19世紀までは、人類はオオカミを絶滅しようという方向で活動してきたということです。(イギリス(フランス?)でオオカミが一時保護されたといいますが、それは貴族の狩猟対象だからという意味でした)

また、この本では、アイルランド人とイギリス人のオオカミの見方の違いについても触れています。それがオオカミ絶滅に3世紀の隔たりを生んだ理由でもあるでしょう。

「ここに『アイルランドのオオカミ』の著者キーラン・ヒッキーのコメントを紹介したいと思う。この島の土着の住民であるアイルランド人と、新しくやって来たイギリス人ではオオカミの見方が大きく異なるように見える。アイルランド人はオオカミをこの国の自然の風景の一部と見ている。(中略) 彼らにはアイルランドの風景からオオカミを抹殺してしまおうなどという考えはまったくなかった。(中略)
いっぽう新しいイギリス人の入植者たちの態度はまったく違っていた。ほとんどのイギリス人はアイルランド島にやって来たとき、山野にまだオオカミの群れがうろついているのを見て恐れおののいたのである。彼らはオオカミをこれから自分たちがこの地に形成していこうと思っている風景を脅かすものであると恐れ、できるだけ早く抹殺しようと考えたのである。新しい入植者たちにはオオカミを受け入れようという考えは微塵もなかったのである。」

 

 もうひとつ、この本にはアイルランドの狼報恩譚が紹介されています。

「恩返しをしたオオカミ」を要約すると、

あるところにコノールという若い農夫がいた。あるときコノールの2頭の牝牛がいなくなり探しに出かけた。夜になり、粗末な避難小屋があり、戸をたたくと、中には白髪の老人と女がいて「どうぞおはいりなさい。よくきたなあ。わしらはおまえさんを待っていたんだよ」といい、夕食を出された。二人を疑いながらも、腹が減って疲れていたので、ごちそうになることにした。しばらくすると、戸を叩く音がして、老人が戸を開けると、一頭のほっそりした黒い若いオオカミが入ってきたが、すらりとした浅黒い美しい若者に変身した。「よく来たなあ。おれたちはおまえのことをずっと待っていたんだ」といった。その後もう一頭のオオカミも入ってきて、若者に変身。老人は、この二人は息子で、コノールになぜここへやってきたかを聞いた。いなくなった二頭の牝牛を探しにきたといった。すると家族は笑ったので、コノールは怒りだして、出ていくといった。すると、若者がいった。「おれたちは見るも恐ろしい邪悪なものに見えるかもしれない。しかし親切にしてもらった恩を忘れることはない。お前は覚えているだろうか。昔、谷底でいまにも死にそうで苦しんでいた小さいオオカミのことを。奴の脇腹にはいばらのとげが刺さっていたんだ。そのとげをおまえが抜いてくれて、水を飲ませてくれた。おまえはそのオオカミをそのままそこにそっと休ませて行ってしまった」コノールは覚えていた。「そのときのオオカミがおれなんだ。おれは何とかしておまえを助けたいと思っている。怖がることはない。今夜はここに泊っていきなさい」そのあとはみんなで陽気に食べたり飲んだりして、ぐっすり眠った。コノールが目を覚ますと家の近くの畑にいた。畑には今まで見たこともない美しい牝牛3頭がいたが、これはオオカミの贈り物だと知った。この3頭の牛は立派に成長し、その子孫は今日にいたるまで栄えている。コノール一族が金持ちになり、繁栄したことはいうまでもない。その後、オオカミ一家に礼を言いたくて探したが、あの避難小屋も探し当てることはできなかった。

 この報恩譚を読んで正直驚きました。オオカミのいばらのとげを抜いてあげたら恩返ししてくれた、という。

この主題でいえば、日本のオオカミの報恩譚とほぼ同じと言ってもいいくらいです。日本でも、オオカミの喉に刺さったとげを抜いてあげたら恩返しされるという話なのです。これも偶然なのでしょうか。

もちろん、この一例だけをもって関係があるとか、ないとか俺が言える立場ではありませんが、東西離れたところに似たようなオオカミの報恩譚があることが面白いなぁと思います。

 (ちなみにカナダの先住民族の民話にも、とげを抜いてあげたら恩返ししてくれたという狼報恩譚が伝わっています)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2024/02/23

「棚田」と「犬」の接点

170210_1(香川県善通寺市にある「犬塚」)

 

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Mg_4926  (犬の尾が稲穂を連想させる?)

 

今までテーマとしてきた「棚田」と「犬」には意外な接点があります。こじつけではありません。

中国南部の少数民族には、「稲を犬が持ってきた」という伝説が多く伝わっています。

例えばチワン族やミャオ族の伝説では、犬が天上の稲モミを尾に付けて運んできました。犬の尾が稲穂を連想させるからだという説もあります。穀物起源の話と犬は意外と関係が深いのです。

チワン族の伝説では、9尾の犬が天上のモミを付けて逃げるのですが、途中8尾は切られてなくなってしまいます。最後に残った1尾に付いていたモミが人間界にもたらされて、稲作をやるようになりました。

日本では、直接犬が稲を運んできたという伝説は少ないようですが、弘法大師が薬草(麦の種子)を盗んできたという話は伝わっています。香川県善通寺市にある「犬塚」も、この伝説の碑です。

その義犬伝説とは、善通寺市のHPによると、こういったものです。

「唐に留学していた弘法大師が天竺の国に行った時のこと。天竺の国王は大切にしていた薬草を持ち出されないように、番犬を使って畑を管理していました。他では手に入らない薬草を何とか手に入れたいと考えた弘法大師は、3粒の種を足の股の肉を裂いてその中に隠して持ち帰ろうとしました。ところが1匹の番犬がひどく吠え、問いつめられた弘法大師は盗んでないといい通し、犬は番人に叩かれて死んでしまいます。かわいそうに思った弘法大師は犬の死骸を持ち帰り、長安で真言の秘法を施して生き返らせます。薬草とともに犬も一緒に帰国し、その後、死んだ犬を祀ったという話です」

この場合も、犬が関係しています。犬は、麦が盗まれないように見張る番犬です。立場は違っていますが、これも穀物起源と犬が関係している話です。

それと、日本では花咲かじいさんと言われますが、中国には犬が田畑を耕す「狗耕田」という民話があります。

ここほれワンワンの花咲か爺さんのルーツ話ともいわれるようですが、犬がここほれワンワンというのを聞いて人間が掘るか、それとも犬自身が掘るかの違いはありますが、(ここから先は俺の勝手な想像ですが)、黄金(宝)を見つけたというのは、「稲(穀物)」なのかもしれません。

 

 

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今日2月23日は 富士山 Mt.Fuji の日

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2024/02/22

【犬狼物語 其の七百三十】18世紀に盛んになった狼信仰

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 狼信仰は山岳信仰と結びついて盛んになりますが一時衰え、再び狼信仰が盛んになったのは、江戸時代中期からです。

とくに三峯神社の御眷属拝借、狼のお札を授与するようになったことがきっかけのように言われていますが、この「狼を借りる」という習俗は全国で同じような時期に広まったという説があります。18世紀です。京都府の大川神社、兵庫県の養父神社(大山口神社)、静岡県の山住神社などです。

お犬さま(狼さま)の扱い方、借り方が全く同じとは言えなくとも、似ているのは事実です。とくに、奥御前神社の霜月例大祭に行ったとき、「本勧請」での狼さまの借り方や、扱い方の厳しさ、祀り方が「三峯神社の方法と似ているのは偶然なのだろうか?」と思ったのでした。

18世紀前半からこの習俗が全国的に盛んになったらしいということで、この習俗がどこかルーツがあって、全国に伝播していったという説があります。それがどこなのかは今のところわかりませんが。同じような習俗が遠くの地で別個に生まれるということもないとは言えないので、伝播説が正しいのかも、今のところはわかりません。

三峯神社についてですが、

「修験者が、山の神をまつり、その山の神の使いが、オオカミであった。一七二〇 年に住職となった日光が、甲州あたりで広く信仰されているオオカミを借りる札を発行し始めた、彼の代になって檀家が増え、金銭、物の奉納が地元から信州の村々に広がるようになった」(栗栖健著『日本人とオオカミ』より)

狼信仰を東日本に広めたのは確かに三峯神社であったかもしれませんが、それまでに狼信仰のベースがあったからこその広まりで、お札を授与する、拝借する、という習俗は、甲州あたりにもともとあったらしいことがうかがえます。

ルーツはどこなのでしょうか? 気になります。

一方で西村敏也『武州三峰山の歴史民俗学的研究』には、

「御眷属の一年後の引き替え、御眷属の守護範囲の指定といった言説は、あたかも狼が存在しているかのような信憑性を与え、狼信仰の御利益の信頼性を生み、それを授かるための儀礼を執行させるに至ったといえよう。狼の知識を持つ人々にとって、狼の存在や習性は、抽象的ではなく、あくまで身近で実感できるものであった。故に、三峰山が規約に記した言説は、説得力あるものだったのである。狼への人間の接し方・方法は、限られてくるもので、狼を奉斎する儀礼の形式やルールは自ずと設定され、各地域とも類似したものとなったのである。」

ともあります。

当時の状況はというと農村地帯では、害獣による農業被害が多くなっていたこと、都会人にとっては、盗難除け、火災除けの需要があったこと、そしてオオカミが「害獣」とみなされるようになった最大の原因かもしれない狂犬病の大流行が享保17 (1732)年長崎から始まりました。いろんな要因が重なり、その時代に求められたものが狼信仰、御眷属拝借、であったのかもしれません。

 

 

 

 

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2024/02/21

長野の棚田

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上から姨捨の棚田、姨捨の棚田、田野口の棚田、大岡中牧の棚田、そして今年棚田サミットが予定されている上田市の稲倉の棚田。

雪の棚田の写真は、タイミングが難しい。雪が多すぎても段差が見えなくなるし、曇った日もまたフラットになって段差がわからなくなります。

そんな中、今回は条件は比較的良かったのではないかと思います。

 

 

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2024/02/20

長野県長野市 芦ノ尻の道祖神

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長野県長野市の芦ノ尻の道祖神です。

神面が取り外された1.5メートルほどの道祖神の石碑に、正月に飾られた注連縄で新しい神面を飾りつけ、来年1月7日までの1年間、地域の無病息災と豊作を祈る守護神とします。

なお、近くには原田沖の棚田があって、そこからも雄大な北アルプスを眺めることができます。

 

 

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2024/02/19

【犬狼物語 其の七百二十九】長野県長野市  三峰神社

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三峰神社は長野市の善光寺の北、御幸町公民館の棟続きに鎮座します。

明治 24 年6月2日、善光寺門前一帯が火災に遭いましたが、この前、5月にも火事があり、この2度の火災は「長野の大火」として大きな被害をもたらしました。他にも火災が頻繁に起こっていたようです。

この大火をきっかけに勧請されたのが三峰神社で、その後場所を変え、現在地に祀られるようになったのが大正9年のことです。

毎年、講中の人が本社に代参して、お札を受けて祀るようになったそうです。


 

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2024/02/18

【犬狼物語 其の七百二十八】長野県須坂市 三峯神社の角灯篭

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須坂市三峯神社。

道祖伸(左)といっしょに祀られている三峯神社の角灯篭(右)。

三峯神社は畑の作物が荒らされたので加護を祈って建てられました。臥竜山の北登口の上にありましたが、昭和45年、当地に移されたという。

 

 

 

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2024/02/17

【犬狼物語 其の七百二十七】東京都 深川不動堂の愛玩堂

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深川不動堂の愛玩堂には、犬、猫、小鳥、そして頭に馬の冠を載せた馬頭観音像があります。

このお堂では、ペットの供養や病気平癒や長寿延命の祈願も受け付けているそうです。

 

 

 

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2024/02/16

【犬狼物語 其の七百二十六】群馬県玉村町 玉村八幡の安産撫で犬&三峯神社

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群馬県玉村町の玉村八幡を参拝しました。

ここには子安信仰としての「安産撫で犬」の像があります。御影石の黒い像を撫でると子授け、安産、子育て祈願になるそうです。また撫で犬の奉納絵馬もあります。

そして本殿の後ろに三峯神社の祠があります。 以前参拝した時は気がつきませんでした。

秩父三峯神社の社紋として用いられている「菖蒲菱(あやめびし)」がこの祠の扉にも施されています。

 

 

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2024/02/14

【犬狼物語 其の七百二十五】城峰講

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秩父市吉田石間に位置する城峰神社も狼信仰の神社で、御眷属拝借のために登拝する信仰集団が城峰講です。

城峰講の信仰圏は、かつては城峰山山麓、秩父市市内、皆野町日野沢、本庄、深谷、群馬県の高崎、前橋などでした。

埼玉県、群馬県は近世より養蚕が盛んな地域であったため、養蚕の大敵であるネズミを、城峰神社の御眷属によって退治してくれることを祈願したからと考えられているそうです。

でも城峰講は近年、だんだん少なくなっているようです。(西村敏也「秩父市吉田石間の城峰神社の歴史と信仰」参照)

この写真は高崎市にある城峰神社の祠で、中には、ちゃんと御眷属拝借のお札が祀られていて、講の活動が垣間見えます。

 

 

 

 

 

 

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2024/02/13

【犬狼物語 其の七百二十四】「お犬さま」「狼さま」とユング心理学

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今年の放送大学では新規講座「イメージの力('24)」も受講しようと思います。

イメージを重視するユング心理学は「お犬さま」「狼さま」と相性がいい。「お犬さま」「狼さま」もニホンオオカミが元になったイメージという側面もあります。(というか、そう解釈しています) だからこの「イメージの力('24)」は俺にはドンピシャな講座です。

全国の狼信仰を追っていると、狐憑き・犬神憑きなどの話が出てきます。特に西日本で。

兵庫県の神社では、ある女性が狐憑きになることがあり、それを祓う目的もあって、その神社の狼さま周辺をきれいにするようになったと、具体例も聞いています。

今では狐憑き・犬神憑きは、精神疾患のひとつとして考えられている症状ですが、心理臨床の場面でもイメージを用います。

昔、「憑き物を祓うのが狼」というのも、「犬神や狐よりも狼は強い」という信仰をみんなが持っていたから祓えていたのだろうと思います。日本最強の動物、「お犬さま」「狼さま」のイメージです。

目に見えない病気や災いも、犬神、狐という具体的な目に見える形に置き換え、また、それを祓う方も、狼という具体的で最強の動物をイメージすることによって、より祓いやすくなるということではなかったかと思います。そして、病気や災いの元凶である犬神や狐を、その患者の体内から追い出し、場合によっては、「よりまし」に一時的に移らせて(憑かせて)、それを遠くに捨て去るということで憑き物を治していたのではないでしょうか。大事なことは、憑かれた人が納得できる物語でなければならない、ということです。

そしてここでは「目に見える形」というのも重要なのではないかと考えます。「目に見える形」とは言っても、現物でなくてもいい、脳内での「見える形」、すなわちイメージです。

目に見えないものは、怖いし、どう扱ったらいいかわからないものです。どんな形であれ、目に見えるものなら、扱いやすくなり、効果百倍です。

昔、憑き物を落とすために「憑かれた人が納得できる物語」がなければならなかったならば、現代の「納得できる物語」とはどのようなものでしょうか。

狼が直接的に病気や火事や 盗難を防いでくれると本気で信じている人はほとんどいないでしょう。狼がいないので害獣除けもありません。

そしたら、狼が持っている現代のイメージとは何でしょうか。人によってさまざまでしょうが、強靭、神秘、孤高、自然、あたりでしょうか。

それが「納得できる物語」であれば、現代の狼信仰がどんな姿なのか、おぼろげながら見えてくるというものです。 

 

 

 

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2024/02/11

【犬狼物語 其の七百二十三】旧暦正月の初詣

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昨日は旧暦正月の元日でした。

旧暦初詣は、こちらのお犬さまです。椋境内には雪が残っていました。なぜか初詣参拝者もなく、静かにお参りできました。(あたりまえか?)

「お犬替え」を犬の譲渡会か何かと勘違いしてヴィーノを連れてでかけたのがきっかけで狼信仰 にのめりこんでいった、俺にっとっては原点の お犬さま です。そのとき、これが普通の狛犬ではなくて、狼像だと知りました。初詣ならここかなと。

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2024/02/10

2024年2月10日は旧暦1月1日

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あけまして、おめでとうございます。

今日、2024年(令和6年)2月10日は、旧暦の元日です。

 

旧暦棚田ごよみについて

2年前、岡山県のある神社で夜の神事に参列する機会がありました。その日は11月15日でした。ただしこれは新暦の日付で、昔は旧暦の霜月11月15日に斎行されていた神事なので、満月の夜だったのです。真夜中ならちょうど中天に月が煌々と輝いていたことになります。それを想像するとぞくぞくっとしました。

昔の祭や神事は月の満ち欠けと関係していました。だから昔の人はいまよりも月の満ち欠けに敏感だったことが想像できます。

柳田国男は『年中行事覚書』の中でこう言っています。

「暦が字で書き印刷した本になり、どこの家庭でも見られるようになったのは至って新しいことで、もとはその暦本の数も少なく、こしらえる処が遠くに在って持って来る方法も なく、それに第一読める人が少なかった。そのためにたいていの農村では昔の仕来りのままに、月の形を見ていろいろの祭や行事の日をきめたのであった。年や月というものの境 も、この満月の日だったろうかと私は思うが、その点は確かにそうだとまでは言えない。ただ少なくとも多くのお社の祭が、今でも十五日の後先になっているのは、文字を知らない人々には月の形が、一ばんわかりやすい暦だったからである。」

毎日変化する月の満ち欠けそのものが暦だったのです。月の満ち欠けには規則性があるということに気がつくには、約29.5日という周期は、偶然とはいえ、ちょうどいい長さだったかもしれません。

ただ、月の満ち欠けだけでは、季節がずれていくので、太陽の動きも考慮したのが太陰太陽暦です。

日本では中国由来の太陰太陽暦を日本風に改良して使ってきましたが、明治6年から太陽暦(新暦/グレゴリオ暦)に変更され、それまで使っていた暦は「旧暦」と呼ばれることになりました。今年は改暦から151年目です。

世界標準となった太陽暦によって科学技術が発展し、豊かになったのも事実なので、否定するものではありませんが、旧暦と新暦の併用はできないものでしょうか。中国、台湾、ベトナム、韓国などの国々では旧暦を併用していますが混乱はありません。日本でも「中秋の名月」など、旧暦を意識せざるをえない日はあって、生活に潤いを与えています。

私たちもこの10年旧暦を使ってきて、確実に月を見上げる機会が増えたし、田んぼの稲の様子の移り変わり、周辺の草花、気温の変化などに敏感になったのは確かです。これは旧暦を意識しているからにほかなりません。

新暦に慣れているので、旧暦ごよみは初め使いづらいかもしれませんが、普段は気にも留めないことに意識を向けさせてくれるのも旧暦なのです。旧暦を使うことは懐古趣味というのではなく、むしろ新しいライフスタイルを提案するという意味もあります。

 

 

 

 

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2024/02/07

【犬狼物語 其の七百二十二】江戸時代中期の二ホンオオカミの呼び名

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江戸時代中期のイヌ属の名称を知ることができる『享保元文諸国産物帳』(1735年~1776年)には、二ホンオオカミと思われる名称も載っています。『諸国産物帳』はすべて見つかってはいませんが、面積的には日本全土の4割をカバーしているという。

以下、中村一恵「江戸中期・諸国産物帳に記載されたイヌ属動物の名称」を参考に、呼び名と件数を書いてみます。(×)内の数字が件数です。

これでわかるように「狼」というのが一番多いのがわかります。次が「山の犬」。

「幕府によって編纂・集成された文献は現存せず、藩などに残された「控」が保存されているものについて資料が復元されている。」(wiki)とあり、「おいぬ」が1件だけというのは、関東地方と東北地方の「おいぬ・おいぬさま」地域の『諸国産物帳』が未発見で、あくまでも残されている地域の『諸国産物帳』内での結果なので致し方ありません。

ちなみに、備中の学者、古川古松軒は、天明八年(1788)に現登米市米川の狼河原(おいのかわら)を通りました。「おいの」や「おいぬ」と呼んでいた地域がこの時代もあったのは確かです。

完ぺきではないにしても、当時の呼称の分布はある程度分かるので、貴重な資料に間違いありません。

 

狼(34)、大かめ(2)、おふかめ(4)、おほかみ(6)、おふかみ(1)ヲヽカメ(2)、ヲヽカミ(1)、をうカミ(1)、ヲウカメ(1)。

おいぬ(1)、大犬(2)、大いぬ(4)。

山いぬ(6)、やまいぬ(4)、山犬(3)、山のいぬ(3)、やまの犬(1)、山の犬(11)、ヤマイヌ(6)、山狗(1)、犲または豺(10)。

 

 これだけ呼び名にバリエティがあるというのも面白い。大きな犬だから「おおいぬ」「おいぬ」、山に住んでいる犬だから「やまいぬ」「やまのいぬ」、これは分かりやすい。

じゃぁ、「おおかみ」「おおかめ」はどうなんでしょうか。この論文「江戸中期・諸国産物帳に記載されたイヌ属動物の名称」によると、「おおかめ」の場合、「大」+「かめ」らしく、「かめ」は「いぬ(犬)」の古語だそうです。参考までに「『東日流外三郡誌』に古代津軽弁の一つとして、犬のことを“カメ”というと記されている。」(古賀達也「“カメ”(犬)は「外来語」か」より) だから「大きないぬ」という意味らしい。そしてkameからkamiへ変わるのは容易だったという説のようです。

ところで、これを地図にポイントしたものを見てみたい、と思うのは、俺だけではないはずです。地図にしたらもっとニホンオオカミの呼称分布状態がわかるのではないでしょうか。そのうち作ってみたい。

 

 

 

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2024/02/06

【犬狼物語 其の七百二十一】群馬県榛東村 大山祇神社

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夕暮れの大山祇神社。

山の神さま、大山祇命を祀った神社。本殿の後ろには数多くの祠も。

ここは蝋梅の里でもあるらしく、いい匂いが漂っていました。

 

 

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2024/02/04

【犬狼物語 其の七百二十】素朴なお犬さま(狼像)

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 狼信仰の小さな祠に祀られていたお犬さま。

今まで出会った中で、これが一番素朴なお犬さま像かもしれません。こういうのが好きです、ほっこりします。

民間信仰らしい狼像かなと思います。

右の「あ形」(上の写真)はかわいいし、左の「うん形」も気になりますよね? ところがご覧のとおり(下の写真)、後ろ向いていて顔が見えません、残念。 

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2024/02/03

富田和明氏、深川不動堂 で『打!般若心経・永巻』を奉納

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友人の太鼓打ち、富田和明氏、2月1日、深川不動堂 で『打!般若心経・永巻』を奉納しました。

力強い富田さんの太鼓は鬼気迫るものがあり、お坊さんの声明と相まって、お堂の中、どこか異空間へ足を踏み込んだような神秘体験
となりました。

 

本人のブログにはこちら。写真がたくさん載っています。
https://uchigumi.blogspot.com

 

 

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2024/02/01

【犬狼物語 其の七百十九】群馬県みなかみ町 三峰神社

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「三峰神社」の名前の由来は近くにある「三峰山」。

なので、秩父の三峯神社とは直接的関係はないそうです。

ただ、お犬さまのお札を配るということは、秩父の三峯神社の日光法印が、18世紀当時、山梨の方で行われていたお札を参考にしたらしく、

それが関東一円に伝わったのかもしれず、まったく無関係というわけではないかもしれません。もちろん「三峰」という社名に関しては無関係なのだと思います。

なお、社務所の裏の小高い丘の祠には向かいあった1対の狐のレリーフがありました。

 

 

 

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