2024/07/30
2024/07/29
2024/07/27
【犬狼物語 其の七百七十】オリンピック採火式と狼
パリ・オリンピックが開幕しました。
東京オリンピックのとき、ギリシアで行われたオリンピックの採火式がニュースになりました。
儀式では、巫女が「アポロンよ!」と太陽神に呼びかけて、太陽光からトーチに聖火を採るシーンがありました。ギリシア神話では、狼(リュコス)は、アポロンの眷属です。ギリシア神話での狼のイメージ、すなわち家畜しか襲わず、神々の眷属や人間の守護者というイメージがあったようです。
「インド=ヨーロッパ語では、狼をさす呼称は光ないし輝くことを意味する語根leuk-(そこからギリシア語のlykosやラテン語のlupusが派生)、あるいはwulk(そこからゲルマン語のwulf、のちにwolfが派生)と結びついている」(『ヨーロッパから見た狼の文化史』から)とのことです。
「目」「目の光」「視線」などが狼の特徴としてとらえられていたようです。「光」は、太陽と関係するイメージです。
ローマ時代はどうかというと、ローマ建設のロムルスとレムスの雌狼の乳で育てられた伝承から、狼は聖獣であり、神殿、墓碑、モニュメント、貨幣にその姿が使われていました。これも良いイメージでした。
2024/07/24
【犬狼物語 其の七百六十九】「狐の穴」というもの
王子稲荷神社の一番奥まったところは崖になっていますが、階段が続いていて上に上れます。崖には穴らしきものがあり、たくさんの狐像が置かれていて隣には祠も祀られています。(写真:1番目)
これは「お穴様」といい、かつての狐の棲家だったという。
先日参拝した上野の神社も「穴稲荷」で穴があったし、品川神社の阿耶稲荷も「穴」稲荷で巣穴らしき穴がありました。他にも都内の稲荷神社には多くの「お穴様」があるようです。
穴は、かつて狐の棲家だったという説明が多いのですが、それだけなんでしょうか。穴は古墳の横穴墓穴という説もあるようです。
どうも、「穴」自体がご神体のようにも見えてくるし、初期の狐信仰と何か関係があるのではないか、という予感が。
小泉八雲の『知られぬ日本の面影』にもは、
「殆どあらゆる稲荷の背後に、社祠の壁の地上一、二尺の邊に、直径約八寸の圓い穴が見出される。往々それは引き板によって、自在に閉められるやうに作ってある。この圓孔は狐の穴で、その中を覗いて見ると、恐らくは豆腐叉は狐が好むと想像される、他の食物が献げてあるだらう。」
とあります。
そうです。八雲が書いているように西日本では別な形の「穴」が目立つのです。
西日本の狼信仰の神社を周っていて気がついたのですが、稲荷神社の社に直径10数センチの穴が開いているのを何度か見ています。(写真:2番目)
いや稲荷神社だけではなく、狼信仰の奥御崎神社の社にも穴(写真:3番目)が開いていたし、別な神社にも開いているところがありました。
奥御崎神社の場合は、社殿の穴は北西の方向に開いていますが、狼信仰の本社である船上山を向いているともいわれます。穴は狼さまの出入り口で塩を投げ入れるとご利益があるそうです。
また、ある神社の場合は、中を覗いたら狼像が置いてありました。
これら西日本の「穴」と東日本の「穴」は同じ意味なんでしょうか。そしてこの穴は何を意味するんでしょうか。
全国の稲荷神社の総本宮である伏見稲荷の宮司中村陽氏監修の『稲荷大神』には次のようにあります。
「稲荷社を巡礼して早々に気づかされるのが、狐塚の存在だ。社祠の裏に狐塚が築かれたり、あるいは狐塚の上に祠が建ってたりする。そしてそれらの多くには、穴らしき窪みが穿たれている。この穴は伏見稲荷大社の裏山に通じるなどと伝えられる一方、”穴”から霊狐が出現し、御利益をもたらすと喧伝され、流行り神となった霊蹟もひとつやふたつではない。狐塚はミニ稲荷山にほかならず、その穴は御利益の源泉にして稲荷神界と通じる神秘の回路だったのである。」
これは狼信仰にも関わるような気がするので、これから調べてみたいと思います。
2024/07/23
【犬狼物語 其の七百六十八】王子稲荷神社
JR王子駅から徒歩12分、少し高くなったところに王子稲荷神社が鎮座します。東国三十三国稲荷総司と言われていました。
ここには江戸時代の狐像が複数体あって、江戸の狐像を知るには外せない大切な神社のひとつです。
まずは境内に入ってすぐ、左右に1対の狐像があります。都内で2番目に古いと言われている宝暦14年(1764)の狐像です。垂れ目の表現が面白い。これには石工銘があり「八丁堀 石工太郎助」となっています。
拝殿でお参りした後、奥に進むと、そこはちょっと薄暗い場所で、本宮と鳥居といくつかの狐像が見えます。
本宮には油揚げがお供えしてあり、都内で3番目に古い明和元年(1764)奉納の狐像が1対たっています。
王子稲荷社への石造物奉納者を調べたリストによると江戸町人が8割を占めています。
明和元年(1764)の狐像は、中橋・京橋・新橋・芝の講中の奉納で、村田屋、越前屋、炭薪仲買人、両替商などの商売人であったらしい。石工銘は「上総屋治助」となっています。石工太郎助も上総屋治助も調べましたが今のところ詳細不明です。
江戸町人が王子まで毎日来るのは難しいので、日常的な祈願のために、地元に稲荷社を設けたというのもあったらしい。
王子稲荷は、火難除け、無病息災、商売繁盛にご利益がある とされるようになりました。
また王子は民話「王子の狐火」でも有名です。農民は狐火によって田畑の豊凶を占ったという。大晦日から元日未明にかけて「大晦日狐の行列」が王子稲荷へ向かうイベントが行われています。
狐と火の関係でいえば、藤原頼長『台記』天養元(1144)年に、狐を祀る小さな祠が火災を防いだとの記事、また、藤原兼実『玉葉』治承五(1181)年に、狐が火災を予兆したという記事があります。
昔から狐の火災除けの信仰はあったようです。江戸の町の隅々にまで狐信仰が融合した稲荷が浸透したのは、今では商売繁盛のご利益が主になっているようですが、火事になりやすい人口密集地、江戸故に、この火災除けのご利益(「火伏の凧」もあります)が、当時重要視されたことも理由の一つであったらしい。
2024/07/22
【犬狼物語 其の七百六十七】狐信仰から見える日本の動物観
今まで知らなかったことが、いろいろ調べたり、現場へ行って見たりして、だんだん分ってくるのが楽しいですね。狐の世界は未知でしたが、「知った後」はもちろんのこと「知る過程」そのものがおもしろいんだなぁと感じます。そして狼信仰がこれほど狐信仰と関係しているんだということに驚いているところです。
何度も書いていますが、狼には強靭・気高さを、犬には忠実・やさしさを、狐には狡猾・怪しさをイメージしますが、人間が持つ内面をこの3者に投影しているのではないかという直感は当たっているのかもしれません。(そのうち4者として狸も?)
狐は最初から今のようなイメージを持たれたわけではなく、古代は山の神・田の神そのものとして、あるいは神の眷属で良いイメージでしたが、狐付きなどの観念と中国の狐妖異譚が結びつきだんだんと怪しい、陰険な方向へ変わってきたということらしい。と、言うか、狐にそういう負のイメージを担ってもらうことになったということです。
特に江戸では狐信仰が結び付いた稲荷信仰が盛んになりましたが、都市開発が進んで狐の棲息場所を侵食していることに後ろめたさを感じていることが、つまり狐の反乱と言ったらいいか、狐の祟りと言ったらいいか、狐付きという現象を生み出した一因(別な原因ももちろんある)ではないかといったようなことを宮田登氏は指摘していて、はなるほどなぁと思います。稲荷神社が増えたことと狐付きが増えたことには正の相関関係があったようです。
そういう江戸町民の意識的・無意識的心理的背景があって稲荷神社が増えていったのかもしれません。そういえば、先日参拝した上野の穴稲荷も巣穴を壊したからそこに祠を祀ったという。これも狐の祟を恐れて祀り始めた一例です。
そして品川神社にある阿那稲荷神社(上の写真)の「阿那」も「穴」の意味だそうで、巣穴を壊したことから仕返しを恐れて祠を建てて祀ったというものらしい。まだ調べたわけではないですが、都内の稲荷神社の起源がこの穴を祀るものが意外と多いのかもしれません。
祟られるのも嫌なので祀りあげ、同時に火伏の御利益・商売繁盛の御利益も得てしまう、民間信仰の一石二鳥のしたたかさが感じられます。
それと日本人の自然観というか動物観も見えてきます。動物の巣穴を壊して後ろめたさを感じ、そのまま平気な顔をしていられないという気持ちは現代人にも通じているように思います。
2024/07/20
2024/07/19
【犬狼物語 其の七百六十四】穴稲荷
上野公園の不忍池へ向いた斜面に穴稲荷(忍岡稲荷)があります。
どうしてここを参拝したのかというと、江戸の狼像のルーツを探っていくと、どうしても先行する狐像を考えなければならなくなり、浅井了意『江戸名所記』に、狐像があったことをうかがわせる記載があったからです。
穴稲荷の由来譚はこうです。
もともと狐たちの巣穴があったところで、それを奪ってしまったことで御堂を建てて祀ったという。現在は鉄の赤い扉を開けて中に入るのですが、中は撮影禁止。ただネット検索すると、写真は出てきます。
「穴稲荷」名前その通りで、直径70cmほどの大きな穴が開いていて、その上にも祠があるのが見えます。
『江戸名所記』「太田道灌これをくはんじょうせらる。本社は洞の内にあり、洞のうへにもまた社あり。やしろの前はすなわち石のほりぬき也。穴のまへ両わきに白き狐有」とあります。『江戸名所記』は1662年刊なので狐像はその前からあったということになるでしょう。
今のところ年代がわかっている江戸の狐像で一番古いものは吹上稲荷神社の1762年のものなので、それよりも100年早い狐像になるかもしれません。
現在でも穴の前には狐像が置いてありますが、当時の狐像ではありません。洞内なので、大きな狐像ではなく、現在のと同じくらいの狐像ではなかったかと思いますが。
ちなみに穴(巣穴)に祠を建て祀るのは、狐信仰が稲荷信仰といっしょになる前、山の神、田の神とみなされていた狐信仰の名残なのではないかと想像します。
最新の狐像もありました。キャラクター化した可愛らしい白狐が、鳥居のところに4体あります。
狼、犬、狐は形態的にも民俗的にも近い位置にいて、お互いに影響しあい、また近いからこそ差別化しながら、3者のイメージが作られてきたようで、これからはこの3者(もしかしたら狸も)をいっしょに考えていかないとダメなんだろうなという予感はします。
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