2025/11/30
2025/11/29
2025/11/28
【犬狼物語 其の八百十一】心理学から見る狼信仰ー「元型」としての狼
狼信仰は害獣の鹿や猪除けとして、主に農業関係の守り神としての信仰から始まったとされますが、それはあくまでも江戸時代に盛んになった理由です。
でも、狼信仰自体は、ずっと古く、おそらく太古の時代に狼とファーストコンタクトがあったときから始まったのではないでしょうか。
縄文時代ではどうかというと、狼と縄文人の関係を想像させる資料がいくつか出土しています。東京国立博物館で開催された『JOMON 縄文』でも展示されましたが、岩手県一関市の貝鳥貝塚からは、細長い鹿角の先端に狼の頭が彫られた狼形鹿角製品や狼の犬歯や下顎骨に穴を開けた垂飾品が見つかっています。千葉県我孫子市の下ヶ戸貝塚からは、狼の下顎骨を加工した垂飾品、千葉県千葉市の庚塚遺跡からは、上顎犬歯が加工された垂飾品も出土しています。
このように、なんらかの狼信仰と呼べるような片鱗が見えます。
これは日本だけではなく、世界的に見ても、狼の骨などは力の象徴、魔除けとして身に着けられたようです。
そこでこの狼に対する人間の共通した信仰はどうして生まれたかについて、マイケル・W・フォックス著『オオカミの魂』の中で、「元型」という言葉を使っています。
フォックスはイヌ科動物の権威。心理学、行動学の博士号を取得して『イヌの心理学』、『イヌのこころがわかる本』などの著書もある生態学者・獣医師です。
この本は、単なるオオカミの生態・行動を紹介した本ではなく、行動学、心理学、哲学、社会科学など幅広い領域の成果をもとに、現代の人間が抱える精神的な問題に踏み込んだ本です。オオカミだけではなく、あらゆる生き物への畏敬の念の大切さを訴えています。
フォックスはこのように言っています。
「オオカミは野生状態の象徴的な存在、つまり野生に対する意識の元型になっています。」
「自然は、わたしたち人間が健全さと文明を取りもどす最後の望みなのかもしれません。そしてオオカミはわたしたち人間にとって、高貴な野蛮人といういくぶん空想的な存在よりもずっと現実的で、実際により適切でもある水先案内人、元型となりうるのです。」
「元型」とあるのは、フォックスの心理学的な考察からきた言葉でしょう。
「元型」は心理学者ユングが提唱した概念で、人間の心は「意識」→「個人的無意識」→「集合的無意識」と階層を作っていますが、もっとも深い所にあるのが人類共通の「集合的無意識」です。「元型」とは「集合的無意識で働く人類に共通する心の動き方のパターン」といった意味です。
代表的なものに「太母」「老賢者」などがありますが、「オオカミ」もそうなのではないかというのです。
人類が長い間、狼との接触によって、DNAに刻まれた”記憶”のようなものが「元型」となり、狼に対する共通したイメージを作るのかもしれません。
狼信仰についていろいろ調べていく中で、西洋でも、モンゴルでも、日本でも、時代をさかのぼればさかのぼるほど、狼信仰に共通したイメージを感じられたので、それがどうしてなのかという疑問を持ってきました。そのひとつの解釈として、心理学から見た狼信仰のルーツということで、「元型」を用いると、個人的に腑に落ちるということなのです。だからこれが「正解」なのかはわかりません。
「元型」という用語は難しくもあるので、精神世界における本能のようなものと言い換えてもいいかもしれません。民族や時代に関わらず人の心は狼に対する同じようなイメージを生み出すということです。
それでは今話題の熊についてはどうなんだという話ですが、熊も「強さ」に関しては狼に引けをとらないので、熊も「元型」となっているのかもしれませんが、もしかしたら棲息範囲が狼ほど広くはなかったと思うので、「元型」になるほどではなかったのかもしれません。以上、熊については詳しく調べたわけではないので、あくまでも憶測です。
さて、日本では狼信仰はその後どういった経緯をたどったのでしょうか。
先日の飯能市立博物館での西村敏也先生の講座「秩父地域のオオカミ信仰について」を参考にすると、日本では、中世になると山の神の神使・警護者として狼を認識するようになった修験者などが全国に進出し、狼信仰を伝えたということであったらしい。日光修験、熊野修験らが行場として利用するため秩父の山岳へ進出し、室町時代になると、修験が秩父の山岳に祠を設けて居住するようになりました。
そして江戸時代になると秩父を中心にした地方では、民間信仰であった狼信仰的なものを寺社が取り込み、狼のお札を配り始め、害獣防止などの需要があったために、急速に関東地方周辺に広まっていきました。
各時代によって狼信仰の形態が違いますが、もともと「元型」としての狼信仰がずっと底辺に流れていたことは間違いないのではないでしょうか。
ただし、太古の時代はまさしく狼そのものに対する信仰でしたが、時代が下るにしたがって(特に日本では)、「狼さま」「お犬さま」という狼を元にした霊獣のようなもの(観念的な狼)を信仰するように変わってきたのかなと思います。
2025/11/27
「刻之共鳴ー 竹市求仙・何柏青 日中刻字芸術交流展」
「刻之共鳴ー 竹市求仙・何柏青 日中刻字芸術交流展」は、文字を彫り刻み立体として表す“刻字(こくじ)”に焦点を当てた日中交流展です。筆致の抑揚や余白の緊張、素材の質感が彫りと彩によって立ち上がり、光と影が文字の気韻を鮮やかに浮かび上がらせます。
公式HP:https://nichukokujiart.eventevent.info/
本展では新作・旧作 各40点、計80点を一堂に展示。木・合板など多様な素材と技法を比較しながら、東アジアに連なる文字文化の共通性と個性を体感いただけます。
出品作家は、日本の刻字を端正に構成する竹市求仙(群馬)と、現代刻字を総合芸術として探究する何柏青(上海)。二人の美意識が呼応し合う「刻の共鳴」を、銀座の会場でぜひご高覧ください。
開催期間:2025年11月24日(月・振)~11月30日(日)
開場時間:11:00~17:00(最終日は16:00閉幕)
会場:セントラルミュージアム銀座 (東京都中央区銀座3丁目9-11 紙パルプ会館5階)
電話:03-3546-5855
入場料:無料
2025/11/24
2025/11/19
2025/11/18
ベトナムと日本の「鯨信仰」
「鯨信仰」についてアイケ・ロッツ先生の講演を聴きました。
ベトナムでは、クジラ・イルカは、嵐のときなど、漁師を救う動物として認識されているという。
クジラは動物であると同時に、特に観世音菩薩を手伝う神様(眷属・神使みたいなものか?)だとのこと。
だから座礁したクジラ・イルカは丁重に葬式や供養の儀式を行い、埋めた骨は、3年後に取り出して、あらためて「陵(神殿)」にご神体として祀るそうです。
ロッツ先生の口からは「祟る」という言葉は出ませんでしたが、クジラ・イルカの葬式・供養を行うのはそういうこともあるから、といった意味に俺には取れました。
ところで、日本でのクジラ祭りなどの紹介もありましたが、講演では、今年撮影した唐桑半島の御崎神社の「くじら塚」も出てきました。そしてロッツ先生が言うには、御崎神社の祭が一番ベトナムの祭と似ているということでした。
御崎神社の「くじら塚」の石碑は2基あって、文化7年、天保7年の銘があります。浜に迷い込んだクジラを漁師たちが捕獲したが、クジラは御崎大明神の霊獣であることから、供養のために建てられた碑だと言われています。
ベトナムと同じように、嵐に遭った船を、クジラが御崎神社まで誘導し助けたという伝説もあるそうです。
2025/11/17
「レアなおふだ」展
飯能市立博物館で開催中の「レアなおふだ」展にようやく行くことができました。
この中で特に関心があったのは、やっぱり「狼」と「猫」札です。
たくさんの狼のお札を見てあらためてその狼の姿のバリエーションの多さに面白さを感じました。
神、あるいは神使としての狼の姿は、あくまでも人々がイメージする姿です。
また、1点しかありませんでしたが、養蚕の守り神としての猫札。眉毛と髭が強調されていて独特の姿です。
午後2時からは隣の市民会館で西村先生の「秩父地域のオオカミ信仰について」の講座がありました。
狼信仰についての興味深い話は当然として、最近の熊害についても触れられました。
そこで、狼信仰における「産見舞い」からの「オタキアゲ」儀式を熊に適応できないものかといった意味の話があり、なるほどと思ったのです。
狼の場合は、襲われる前にお供え物(豆腐やあずき飯)をあげることで、被害を防ごうという発想ですが、熊に対する「オタキアゲ」という象徴的な儀式がどれだけの効果があるのかは疑問ですが、発想としては面白い。
ただ、熊の餌を山に撒くという案が実際あるらしいのですが、それで市街地まで熊が下りて来なくなるかもしれないとしても、熊の母数が増えてしまうという大問題があります。根本問題が拡大してしまうという矛盾。
儀式というのは、実際の効果うんぬんというより、人々の決意の表明でもあると思うので、熊に対する「オタキアゲ」が無意味とも思いません。
2025/11/16
2025/11/09
2026年(令和8年)版「旧暦棚田ごよみ」
来年の「旧暦棚田ごよみ」販売始めました。
NPO法人棚田ネットワークのHPよりご注文ください。
https://www.tanada.or.jp/tanada_goyomi/
私たちは時計や暦を発明して「時間」を普通に感じて使っていますが、考えてみれば、たとえば1日が24時間、1年が365日というのは、偶然で特殊な例だと気がつきます。
昔、あるTV番組を見ていたら、赤色矮星を周るその惑星は、赤色矮星に近すぎるので、いつも惑星は引力の影響を受けて自転をしないそうです。赤色矮星は空のどこかにあってずっと動きません。
自転しない惑星の話ですが、そのような惑星に人類のような生物が生まれていたとしても、彼らは時間を意識できないかもしれません。できないというより、違った時間の単位を持つでしょう。当然ですが、24時間や365日にはなりません。
時間が違うとコミュニケーションは難しいという話です。SFの話だけではありません。私がイランのカスピ海沿岸地方の棚田を撮影に行ったときのことです。
何か祭りがあると聞いたので、それがいつなのか尋ねたのですが、いっこうにわからず諦めた経験があります。
イランへ行ったのも15年程前だし、テヘランなどの都会は別でしょうが、当時、田舎に行ったとき、「西暦(グレゴリオ暦)」がまったく通じず、すべて「イラン暦」で答えられたからでした。イラン暦は、春分から一年が始まる暦で「ヒジュラ太陽暦」ともいわれます。春分の日はノールーズ(ペルシア語で「新しい日」という意味)として盛大に祝われます。
暦が違っただけでこれだけ話が通じないんだなと愕然としました。西暦に慣れてしまっていると、他の暦には即座に対応できません。頭がこんがらがってしまうのです。「なんで西暦がわかんないの?」と逆切れしました。イラン暦でさえこうなんだから、ましてや、広い宇宙で自転のない惑星に住んでいる生物ならどんなことになってしまうのか。
暦はコミュニケーションを取るための必要なものであることを言いたいのですが、また、使っている暦によって、その人たちのライフスタイルは決まってくるということです。私たちは自分のライススタイルは自由自在に、自分で作っていると思っていますが、暦によって制約を受けていることも事実です。
毎年提案していることですが、西暦を否定するわけではなく、プラス、旧暦も気に留めておけば、世界は2倍に広がるということではないでしょうか。新暦に慣れているので、旧暦ごよみは初め使いづらいかもしれませんが、普段は気にも留めないことに意識を向けさせてくれるのも旧暦なのです。
こよみは、単なる日付が並んだ表ではありません。昔の権力者は、勝手にこよみを作ることを禁止していたくらいです。こよみが変わると、生活が変わる、そうすると考え方まで変わってきます。
2025/11/07
2025/11/03
2025/11/02
映画『ハウス・オブ・ダイナマイト』
「ごくありふれた一日になるはずだったある日、出所不明の一発のミサイルが突然アメリカに向けて発射される。アメリカに壊滅的な打撃を与える可能性を秘めたそのミサイルは、誰が仕組み、どこから放たれたのか。ホワイトハウスをはじめとした米国政府は混乱に陥り、タイムリミットが迫る中で、どのように対処すべきか議論が巻き起こる。」(映画.comより https://eiga.com/movie/104226/ )
これは緊迫感があり、怖い映画でした。
核爆弾搭載したらしいミサイルを検知し、アメリカの本土に着弾するまでの何分かの物語。
そして、核爆弾が抑止力になるのは、ある意味、人間性を信じるからこそである、ということを思わせる映画でした。
「核を発射したら、こちらも反撃されてたいへんな被害を被る。だから核は発射しない」
そういう前提が崩れたら核爆弾の抑止効果などない。大統領も、抑止力になっていないじゃないかと溜息をつくありさま。
今、そういう国や集団が現れ始めているような世界情勢です。だからリアリティがありすぎて怖いのです。













































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