カテゴリー「心理学の話題」の238件の記事

2024/05/10

NHK『フロンティア ヒトはなぜ歌うのか』

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NHK『フロンティア ヒトはなぜ歌うのか』を観ました

ヒトはなぜ歌うのか? なぜ言葉を忘れても、歌は忘れないのか?

アフリカ、バカ族の歌を分析したのは面白かったですね。

「集団の絆」を深める説。なるほどと思います。

また音楽によって高齢者の脳の機能が向上するのもわかってきて、認知症の役にも立つかもという希望の持てる話。

そして、この番組を見ていて、思ったことがあります。もしかしたら「言葉」の前に「音楽(ビート)」があったのでは?

繰り返し同じ間隔で物を叩けばビートになる。そして人間は「ビート予想」が優れているという。と、すれば、他の人がビートを予想して、次の一打を叩けばある意味それはその人に対しての「共感」を表すんじゃないでしょうか。「おお、お前、わかってくれるのか」と。

ヒトが他の霊長類と大きく違うのは「他人との共感」と心理学講座で習った気がします。チンパンジーは賢いけれど共感力に欠けるそうです。

ビート予想は言葉がなくても成り立つから、言葉の前にビート(音楽)があったということはないんでしょうか。あるいはビートが言葉のルーツとか、そんな研究はされてないんでしょうか。

と思って調べてみたら、人間の言葉が歌から始まったという説がやっぱりあるんですね。おもしろい。 

 

 

 

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2024/02/13

【犬狼物語 其の七百二十四】「お犬さま」「狼さま」とユング心理学

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今年の放送大学では新規講座「イメージの力('24)」も受講しようと思います。

イメージを重視するユング心理学は「お犬さま」「狼さま」と相性がいい。「お犬さま」「狼さま」もニホンオオカミが元になったイメージという側面もあります。(というか、そう解釈しています) だからこの「イメージの力('24)」は俺にはドンピシャな講座です。

全国の狼信仰を追っていると、狐憑き・犬神憑きなどの話が出てきます。特に西日本で。

兵庫県の神社では、ある女性が狐憑きになることがあり、それを祓う目的もあって、その神社の狼さま周辺をきれいにするようになったと、具体例も聞いています。

今では狐憑き・犬神憑きは、精神疾患のひとつとして考えられている症状ですが、心理臨床の場面でもイメージを用います。

昔、「憑き物を祓うのが狼」というのも、「犬神や狐よりも狼は強い」という信仰をみんなが持っていたから祓えていたのだろうと思います。日本最強の動物、「お犬さま」「狼さま」のイメージです。

目に見えない病気や災いも、犬神、狐という具体的な目に見える形に置き換え、また、それを祓う方も、狼という具体的で最強の動物をイメージすることによって、より祓いやすくなるということではなかったかと思います。そして、病気や災いの元凶である犬神や狐を、その患者の体内から追い出し、場合によっては、「よりまし」に一時的に移らせて(憑かせて)、それを遠くに捨て去るということで憑き物を治していたのではないでしょうか。大事なことは、憑かれた人が納得できる物語でなければならない、ということです。

そしてここでは「目に見える形」というのも重要なのではないかと考えます。「目に見える形」とは言っても、現物でなくてもいい、脳内での「見える形」、すなわちイメージです。

目に見えないものは、怖いし、どう扱ったらいいかわからないものです。どんな形であれ、目に見えるものなら、扱いやすくなり、効果百倍です。

昔、憑き物を落とすために「憑かれた人が納得できる物語」がなければならなかったならば、現代の「納得できる物語」とはどのようなものでしょうか。

狼が直接的に病気や火事や 盗難を防いでくれると本気で信じている人はほとんどいないでしょう。狼がいないので害獣除けもありません。

そしたら、狼が持っている現代のイメージとは何でしょうか。人によってさまざまでしょうが、強靭、神秘、孤高、自然、あたりでしょうか。

それが「納得できる物語」であれば、現代の狼信仰がどんな姿なのか、おぼろげながら見えてくるというものです。 

 

 

 

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2023/10/16

納得できない茨城県「魅力度ランキング」最下位

 

縁あって、良い所たくさんあって撮影もしているので、茨城県が「最下位」というのが納得できません。

ところで、今さらながら気がつきましたが、茨城県の形は遠吠えするオオカミ の姿なんですね。

北浦と霞ケ浦が効いてます。これがあるので2本の前足にも見えてきます。目のあたりに「袋田の滝」があります。

もうちょっと、加須市、幸手市、久喜市あたりまで尻尾が長ければ完璧だったんですが。

棚田のときは「棚田病」、犬像のときは「犬像病」でしたが、なんでも狼に見えてくるって、これも「狼病」の症状です。もう完全に心理学の話です。人は見たいものを見ている、ということです。これを見て狼について関心がない人は狼には見ないからです。同じ画像を受け取っても、解釈するのはその人の脳であるのは間違いありません。

Xではフォロワーさんから教えてもらって、画像を90度左回転させても狼の頭に見えるというすごい発見。

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とにかく、茨城県の魅力がもうひとつ増えたということです。

千葉県が「チーバくん」なら、茨城県は「イバロウ(狼)くん」でダメでしょうか。

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俺はイラスト描けないから、だれか描いて!

 

 

 

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2023/09/25

【犬狼物語 其の六百八十五】 お犬さま(狼さま)像の見分け方

287a8162_20230924082901(一見「狐」に見えますが由来がはっきりしている西日本の「狼」像)

Img_9061_20230925072601(川越氷川神社内の三峯神社の「お犬さま」)

 

お犬さま(狼さま)像を探して歩いていると、これは「お犬さま? それとも狐? それとも犬?」という像にたまに出会います。

そこでどう判断するのか、参考までに見分け方を書いておきます。

基本は、たとえば胴体にあばらの表現があるとか、牙があるかとか、鬣があるとか、尻尾はお尻に回してあるか(西日本ではそうとも限らない ↑のような)とか、そして、それが置いてある神社や祠が、狼信仰と関係のあるものかどうかで判断していますが、あることに気がつきました。

何かに興味が出たら、まずどうするか。「何も考えないで」と言ったら言い過ぎですが、まずは、ひたすら多くのものを見ますよね。

お犬さま(狼さま)像についてもそうです。数多く見てくると、最初は、狐像と、犬像と、狛犬像とも区別ができなかったのに、だんだんできるようになっていきます。

たとえば、顔の判断は「平均顔説」というのがあります。日本人なら日本人の顔の平均を知っているので、そこからどれだけ外れているかの「差」で判断しているという。外国人が日本人の顔がみな同じに見えるというのは、日本人の「平均顔」を知らないからで、反対に、日本人は外国人の「平均顔」を知らないと、みな同じに見えます。若い世代との付き合いが減ったお年寄りは、だから若者の「平均顔」がわからず、同じに見えてしまいます。

外国旅行すると、その国の滞在が長くなるにしたがって、その国の人の顔の区別がつきやすくなるという体験は俺にもあるので、この説は説得力があります。

これは人間の顔だけではなく、いろんなことに言えそうなのです。俺は、お犬さま(狼さま)像にはバリエーションを感じて、細かい区別はつくのに、いわゆる狛犬はどれも同じに見えるのも、この「平均顔」説で説明できるかもしれません。

よりたくさんのお犬さま(狼さま)を見ることで、お犬さま(狼さま)の「平均顔」がわかってくると、それぞれの微妙な差異にも気が付けるようになる、ということです。そしてその「平均顔」からかなり外れたものには、もしかしたら、これは狼じゃないな、狐かな?とか、犬かな?とか、気が付けるということになります。

とはいえ、けっこう難しいものもあります。これは平均顔説とは関係ない例ですが、明らかに狐像なのに、三峯神社前に置かれているもの。栃木県のある三峯神社の例です。社務所で尋ねたら、だれかが勝手に(?)置いて行った(奉納した)像だそうで、その人がそれを狐、あるいは狼と意識していたのかどうか。三峯神社には狼、稲荷神社には狐、ということもあまり意識していない可能性もあります。もっと言えば、その神社が三峯神社であることを知らない可能性だってあります。

もうひとつの例が川越氷川神社内の三峯神社です。「狐」に見える(「狐」そのもの?)「お犬さま」です。

民間信仰という面からいえば、そこらへんは重要ではないかもしれません。大切なのは、手を合わせる謙虚な気持ちです。拝む「物」はなんでもかまいません。

なので、俺は、三峯神社など狼信仰の神社・祠の前に置いてあったら、たとえ狐に見えても、あるいは狐そのものでも、一応「狼」として捉えるしかないのかなぁと思っています。奉納した人の気持ちを考えると、間違っていますなんて言えないですよ。

いや、狼も狐も、この場合区別する必要もないというか、要するに全部ひっくるめて「お犬さま」なんですね。あいまいさも包み込んでくれる言葉「お犬さま」、いいじゃないですか。

 

 

 

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2023/09/06

悪夢について

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犬と暮らしている人なら見たことあると思いますが、寝ているとき、手足をばたつかせたり、短い吠え声を何度も出したりしているところ。夢でも見ているんだろうなと思っています。

実際、眼球運動もしているようで、これは人間でいうところのレム睡眠で、夢を見ている状態です。だから犬も夢を見ているんでしょう。ただそれを証明することはできません。

仮に夢を見るとすると、イヌの心にも無意識の領域はあるんだろうなと想像します。おやつを食べたり、野原を駆け回っているように想像される犬の寝姿から、夢は願望充足でもあると思われます。

そこで、「悪夢」について常々思っていることです。

自分で夢日記をつけていて思うのですが、そもそも「悪夢」というのは何なのかはっきりした定義はないし、仮に「怖い夢」「うなされる夢」が「悪夢」としても、それは意識側から見た話で、無意識にとっては、その人にその夢が必要だから見ているのだろうということなのです。

たとえ、殺されるような夢を見ているとしても、実際に死ぬわけではなく、無意識内での「死」は、何か意識側で、今の自分を否定し(殺し)、新しく変わらなければならない、あるいは、新しく変わりたいという願望かもしれないのです。疑似的な死がなければ再生できないわけで、だから、意識側の人間が、勝手に「悪夢」と判断して、夢にうなされている人や犬を起こすのは、けっしていいことではないような気がします。そのままにしておく。妻にも俺が夢でうなされていても起こさないようにと頼んでいます。

うなされているとき起こされると「悪夢を見た」ことが記憶されてしまいますが、そのままスルーされれば、結局本人も、悪夢を見たことを覚えていないので、見なかったと同じです(意識上では)。

でも、そのままにしておくのは、意外と難しいものです。辛そうにしている人や犬を見ているのは忍びないということでしょうが、それは、そうしない自分に対する後ろめたさであるかもしれません。

 

 

 

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2023/08/31

映画『福田村事件』関東大震災から100年

1_20230831091901(映画『福田村事件』公式サイトより)

 

そのうち観なければ、と強く思う映画です。

映画『福田村事件』公式サイト

https://www.fukudamura1923.jp/

関東大震災直後、避難民から「朝鮮人が集団で襲ってくる」「朝鮮人が略奪や放火をした」との情報を聞いた福田村の村人が、疑心暗鬼に陥り、人々は恐怖にかられます。そして混乱のなかで善良な村人たちがだんだんと過激化していき、ついには惨劇が起こってしまいます。

昨日、NHKクローズアップ現代で、監督のインタビューがありました。監督は、人間の集団行動に注目しているようです。肉体的に弱い人間が地球上で生き延びることができたのも、集団行動をとることでした。(集団で狩をすることはオオカミから学んだという説は、何度も書いていることですが)

でも、集団行動には副作用があります。とくに平時は問題ないのですが、有事になったときです。恐怖や疑心暗鬼にとらわれ始めると、「個」はなくなり「集団」の意志が暴走し始めます。不安や恐怖を感じたとき「集団」は、ひとつにまとまろうとし、異質なものを見つけては攻撃し排除しようとします。

こういった悲劇を起こさないためには?という質問に、監督は、「集団」を主語にしないことが大切だと言います。その通りですね。ただ有事には「個」を保ったとしても、「集団」の力は強く、どうしようもなくなる場合があるとも。まさに「福田村事件」がそうだったのでしょう。

心理学者スタンレー・ミルグラムが行った服従実験というのがあります。ナチス政権下でユダヤ人虐殺に関係したとされるアイヒマンに由来して「アイヒマン実験」ともいわれますが、普通の人たちも、ある状況の元では、権威者に命じられるままに、罪のない人に電気ショックを与え続けるという実験です。

それと並んで有名な心理学的実験は、フィリップ・ジンバルドの監獄実験というものがあります。

スタンフォード大学で模擬刑務所を作り、大学生を囚人役、看守役に分けて生活をさせるものでした。参加者たちは自分の「役」に没頭し、看守は攻撃的、威圧的になってゆき、囚人役はより服従的になっていきました。でも、囚人役が心身に異常をきたしたので、2週間の実験を取りやめ、6日間で終了したという実験です。

普通の人たちが「役」にはまることで、どんなふうに変わっていってしまうのか、見ていると恐ろしくなります。なぜ恐ろしいかというと、「彼らは特別な人間」ではないからです。

ミルグラムがいうところの「状況の力」がいかに人間の行動に影響するか、俺たちはなかなかわかりません。

たとえば、ある犯罪が起こったとすれば、「あいつは残忍で非情な性格だからあんなことをやったんだ」と、つい結論してしまいます。それは「あいつは異常で俺たちとは違うのだ」と思い込むことで、どこか安心したがっているからでしょう。「俺は犯罪を犯さない」という(根拠の無い)自信を持ちたいのです。

ところが「状況の力」を過小評価し、個人の性格などに理由を求めてしまうのは、人間が共通して持っている「基本的な帰属のエラー」と呼ばれるものだそうです。

つまり状況しだいでは、どんなに「善良な人」も、最悪なことをやってしまいかねないということです。ということは、「俺もそうやってしまうんだろうか」という不安がぬぐえないことになってしまいます。

でも、「状況の力」のことを恐れているなら、逆に、そういう状況を作らない、そういう状況を拒否することで、最悪な行動を取らなくてすむかもしれません。

「自分はそんなことはしない」という自信を持っている人ほど危ないとも言えるわけですね。「(自称)善人」の危うさはここにあるようです。

 「福田村事件」のような状況はまた生まれる可能性があります。いや、現に今、そんな危ない状況が生まれているように見えます。

 たとえば、福島第一の原発処理水問題。インタビューである中国人は、正確には忘れましたが、こんなふうに言っていました。これは世界中の環境を破壊し、人々を不幸にします、といったようなことをです。

一方の日本人も、中国人は科学的ではないとか、なんとか。両方とも、中国人は主語を「世界の人々」にし、日本人もだんだんと「個人」の意見ではなく「日本人」の意見のように言い始めている人たちがいます。「お前が世界の人や日本人を代表しているわけじゃないだろ?」と突っ込みを入れたくもなります。気持ち悪い正義感のような物がにじみ出ています。

「中国人」「日本人」として応酬が始まると、だんだんエスカレートしていき、それこそ監督が言っている主語を「集団」に持っていく危ない兆候といわざるをえません。

監督が言っていることはこういうことなんだろうな。福田村事件の犯人たちも、国のためにやった、みたいなことを裁判で言っていたらしい。罪悪感がなくなっているんです。これも「個」を離れ「集団」(この場合は日本)が主語になった恐ろしさです。

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2023/08/06

チコちゃんに叱られる!「都会の人が冷たい」のはなぜ?

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先日の、チコちゃんに叱られる!で、都会の人はなぜ冷たいのか?というのをやっていました。俺も東京に出てきたばかりのとき、実際、そういう感じを持っていました。

番組では、都会では処理しなければならない情報が多すぎて、たとえば道を聞かれても、必要最低限、短く答えてしまうとか、たくさん人がいるので、自分が助けなくても、他の人が助けるだろうと思ってしまう、責任回避というのが理由としてあげられていました。

「埼玉県人」を「都会人」と呼べるなら、俺も今では「都会人」側で、確かに、他人にそっけないかもしれません。そして今は、詐欺や犯罪が多いので、どうしても身構えるというか、疑ってかかるようにもなっています。まったくの赤の他人とは関わらない方がいい、ましてや、ちょっと怪しいなと思える他人は避けるといったことですが、これは自己防衛でもあるので、これ自体非難されるものではないと思います。

それともうひとつ、関係すると思われるのが、緊急事態の現場に居合わせた人の数が多いほど、助ける人が少なくなる「傍観者効果」です。

これは様々な心理学実験、癲癇発作や、煙が出るなどの実験でも確かめられています。

どうしてそうなってしまうのか、大きく2つの理由があります。

【責任の分散】 人数が多いほど、自分よりも援助に適した人がいるはずだ、自分がやらなくてもいい、ほかの人にも責任はあると考えてしまう。

【集合的無知】 みんな同じことを考えていることを知らず、自分の考えはほかの人とは違うのではないか。自分では緊急事態なのかもと思っても、周りの反応を見ると、他の人たちは何もしようとしていないのをみて、緊急事態ではないんだと思い込んでしまう。みんながそう考えてしまうので、誰も助けなくなってしまう。 

たとえば、電車内でトラブルがあっても誰も助けてくれなかったなどと、「都会人の冷たさ」を非難しますが、たぶん、これも「傍観者効果」と関係があるのかもしれません。個人的には親切な人も、大勢の中では傍観者になってしまう。でもそれは「冷たい」からではない、むしろ「やさしさ」や「思いやり」かもしれないんだぁと、ちょっと見方が変わってきますね。「都会人の冷たさ」は見かけだけ、という一種の錯覚かもしれません。

反対に「田舎の人は親切だ」というのも、もしかしたら錯覚なのかなとも思います。人が少ないからというのは「傍観者効果」で説明できます。それと人と関われる時間的・精神的余裕があるということでもあるでしょう。

要するに、親切な人は都会、田舎にかかわらないということなんでしょう。こういうこと、あまり気にすることないです。社会心理学的に正しいとしても、それは「社会」や「集団」に対してであって、「俺」や「あなた」には特別の事情があり、たいていは当てはまりません。

 

 

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2023/07/19

夢日記

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夢を見ました。覚えていたのは、内容が強烈な印象だったからです。

イメージ写真を、 bing image creatorで作らせてみましたが、あまりにも生々しかったので、上のイメージ写真にしました。

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アジアの田園地帯。広い農道のようなところを女の人と歩いている。轍が泥だらけになっているので、乾いた部分を歩かなければ歩きづらいし、靴が汚れると思った。突き当りには、警察車両が止まっていた。1台のパトカーと、機動隊の乗る車両。何かあるのだろうか。その時、ある青年が興奮して叫んでいた。「これを見てくれ!」。看板に写真が貼られていた。青年は、「こんなこと許されていいのか!」とも叫んでいる。どうも、地震か火事の災害か、戦争でもあったようで、同級生たちが10人以上死んで、死体置き場のように見えた。累々と重なる放置された死体の山だ。青年はそれに怒っている。

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夢を見ていたことは覚えているものの、どういった内容か忘れてしまうことも多く、なかなか夢を覚えておくのも難しいなぁと思います。今回の夢は、内容が強烈で、その感情が起きた後も続いていたので、こういう夢は覚えています。昨日、京都アニメーションのニュースを見たからでしょうか。

でも京都アニメーションの事件が影響はしてますが、この夢の一番の肝は、叫んでいる青年の気持ち・感情にあるようです。どうして俺の気持ちを分ってくれないんだ!?という嘆きというか、落胆というか・・・

夢の補償作用を考えると、現実社会に対して、俺は何か訴えたいことがあるようです。「あるようです」というのは、自分では意識していないからですが、それこそ無意識からのメッセージが夢に現れているということは言えるのかもしれません。

ところで、前にも書いたことですが、夢を覚えておくのに一番いいのは、枕元にノートを置いておいて、目覚めてすぐメモすること。でも、これをやり始めると、熟睡できなくなるので最近はやっていません。

それで夢の内容をいったん言葉にしてつぶやくことにしました。そうするとじゃっかん覚えやすくなるようです。たぶん無意識からのメッセージであるイメージそのままで覚えておくというのは難しく、言葉にすることで、意識の世界に取り込めるからだろうと思っています。

 

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2023/07/11

心の処方箋である昔話や伝説

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イメージの活用を目的に心理学を始めたのでしたが、ユング心理学は、『犬狼物語』の原稿を書くにあたって、犬像・狼像にまつわる昔話や伝説が、残るべくして残ったという視点を与えてもらったのは良かったと思います。

狼の喉からトゲを取ってあげたら狼に感謝されて獲物をもらったとか、犬の首が宙を飛び大蛇に嚙みついて殺して主人を助けたとか、犬が少女の身代わりで怪物と闘ったとか、これを「事実」と捉えたら、単なる荒唐無稽な「嘘」になってしまいます。

ところが視点を変えて、この「嘘」こそが、人間の心が生み出した、何物かの表現であると考えるわけですね。「夢と似ている」と言えばわかりやすいかもしれません。俺たちが観ている夢も、覚醒時の現実世界では、「嘘」になってしまいますが、「夢は嘘だ」なんて言っても、まったく意味がないのと同じです。

昔話、伝説、神話は、夢と似ているのです。人間が共通して持っている集合的無意識の反映とも言えます。しかも、これはある時期から固定してしまった「化石」ではなく、今現在も刻々と変化している「生もの」だということです。

とくに伝説は過去の事実がそのまま伝わることもあるでしょうが、その話が地元の人にとって何か有益なことがあれば、尾ひれがついて、変わっていくということは考えられることです。反対に不利益があったら削られていくということも同様です。

心理学者・大場登著『精神分析とユング心理学』には、神話について、

「その国・その文化圏の人々の心が一致して「受け入れてきた」、その意味で個人を超えた、文化的、あるいは普遍的な「世界観」の表現とみることもできる。人々の心によって受容されないものが歴史を超えて残り続けることはほほとんどありえない」

と言っています。伝説は神話より、もっと具体的な物語ですが、残り方としては同じではないでしょうか。

今も、刻々と伝説が変わっている現場を目撃しました。筑後市の「羽犬」の伝説です。伝説をしらべてみると、「秀吉の愛犬」というのと「秀吉を阻む暴犬」とのふたつの伝説が伝わっています。この両極端な伝説は何を意味するのでしょうか。

秀吉も信長同様、鷹狩りを好んだそうで、鷹狩用の犬である「鷹犬」(まさに鳥と犬の合体した「羽犬」のイメージ)は「御犬」と呼んで大事にされましたが、反対に、野犬は殺されて鷹の餌にされたという話があります。犬の運命は天国と地獄の、両極端の開きがあったんですね。そういった犬の祟りを恐れて犬塚を作り、供養したのかもしれません。そして気持ちを落ち着かせてくれるような物語を語り始めた。このなかに悲惨な餌になった犬の話はありませんが、両極端な羽犬の伝説には、人々の苦悩というか、葛藤が現れているように感じます。

さらに、のちの時代には、羽犬が死んだ原因が、「病死」と「弓で射られた」とふたつできたようです。

微妙な違いかもしれませんが、「病死」の方が加害者を作らず穏便に済むからかなぁと思います。「弓で射られた」となれば、「誰が?」ということが問題になってきます。

物事にはかならず両面性があり、それをどっち側から見るかで、物語も変わってきます。

それと、こういうこともあります。最近は、桃太郎の「鬼退治」も「不公平で、可哀そうだ」との意見が出てきて物語が変わってきているという話も聞きます。

数年前、高崎市のだるま市のことが話題になったときがあって、だるま市を開いていた少林山達磨寺と、業者の方でトラブルがあり、それと連動するように、市のHPから、今まで達磨寺に伝わっていた伝説が消え、「新説」に置き換わってしまったというのです。自分のブログから2016年~17年の話だったとわかりましたが、トラブルについては、こちらに載っています。

 https://www.sankei.com/article/20161222-DW4DKCMDSVIGRNI7GE5G4C7PXY/

具体的にどのような伝説か、忘れてしまいました。でも、あぁ、こういうことで伝説がひっくり返されるんだなと妙に納得したことをおぼえています。

昔話や伝説は流動的なものではないでしょうか。「生きている」と言えるわけです。

昔話や伝説は、化石のような過去の遺物ではけっしてないということ。昔話や伝説は刻々と変化して、必要な人にとっての、心の処方箋になっているのかもしれません。人間には物語が必要なようです。 

ただし、注意が必要なのは、高崎市のように、簡単に変えられてしまう(しかも公権力によって)こともあり、ある意味、怖いことでもあります。公権力が都合のいいように、あるいは、人々に耳障りがいいような物語を語り始めるということもないとは言えません。 

 

 

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2023/06/21

「北島康介・吉田秀彦・萩野公介「五輪金トリオ」が布教に励む「富士王朝は存在した」謎の新興宗教」のニュース

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FLASHの記事(https://smart-flash.jp/sports/240384/1/1/)にはこうあります。

「教祖の渡邉聖主(せいす)氏は、『宮下文書(みやしたもんじょ)』と呼ばれる古文書を教義の中心にしています。神武天皇よりも以前の200万~300万年前に、教団本部の場所に『富士王朝が存在した』と主張しており、宮下文書に記された古代神社の再建を、活動の中心にしているんです。」

200~300万年前といったら、「猿人や原人の王朝」ということなんだろうか。「猿の惑星」みたいなものを想像すればいいのかな。ちなみに富士山もまだなかったようですが・・・。

この教義には突っ込みどころ満載で、だから「謎の」という形容詞が付けられてしまうのでしょうが、どんな荒唐無稽の物語でも信じるのは自由です。

史実や事実だけが人間の心を満たしているのではないことは、自分のことを考えてもわかります。どんな人も、理屈に合わないことのひとつやふたつは信じているでしょう。俺もそうです。

そもそもどんな宗教でも、信じるかどうかは、その人の心に「ぴったりくる」物語を提供してくれるかどうかだけです。

ただ、「教団の公式サイトには古代神社の再建計画が示され、30億円を目標に「奉賛金」を募っている。」とあります。

問題となってくるのは、記事でも触れられていますが、金メダリストなどの権威者を使って(本人たちは無意識かもしれませんが)、若い人たちに、これが「物語」ではなく「史実」や「事実」だと思い込ませること、そしてそれがだんだんと進んでいって、精神的、肉体的に、強制力をもって入信させたり、寄付を募ったり、となってくれば、これは宗教の話ではなく、社会的な問題となってくるでしょう。

 

 

 

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