カテゴリー「映画・テレビ」の258件の記事

2025/11/02

映画『ハウス・オブ・ダイナマイト』

1_20251030083701

「ごくありふれた一日になるはずだったある日、出所不明の一発のミサイルが突然アメリカに向けて発射される。アメリカに壊滅的な打撃を与える可能性を秘めたそのミサイルは、誰が仕組み、どこから放たれたのか。ホワイトハウスをはじめとした米国政府は混乱に陥り、タイムリミットが迫る中で、どのように対処すべきか議論が巻き起こる。」(映画.comより https://eiga.com/movie/104226/

これは緊迫感があり、怖い映画でした。

核爆弾搭載したらしいミサイルを検知し、アメリカの本土に着弾するまでの何分かの物語。

そして、核爆弾が抑止力になるのは、ある意味、人間性を信じるからこそである、ということを思わせる映画でした。

「核を発射したら、こちらも反撃されてたいへんな被害を被る。だから核は発射しない」

そういう前提が崩れたら核爆弾の抑止効果などない。大統領も、抑止力になっていないじゃないかと溜息をつくありさま。

今、そういう国や集団が現れ始めているような世界情勢です。だからリアリティがありすぎて怖いのです。

 

 



 

 

 

| | コメント (0)

2025/10/20

映画『最初に父が殺されたFirst They Killed My Father』

1_20251020090101

2017年の映画『最初に父が殺された』を観ました。

 『最初に父が殺された』(First They Killed My Father)は、アンジェリーナ・ジョリー監督による、カンボジアのクメールルージュ支配下で行われた強制労働や虐殺から生き延びた5歳の少女の目を通して描いた壮絶なストーリーです。

原作があるんですね。クメール・ルージュ時代を生き抜いたルオン・ウンの回想録『最初に父が殺された 飢餓と虐殺の恐怖を越えて(英語版)』を基にしており、ジョリーとウンが脚本を執筆したそうです。テルライド映画祭やトロント国際映画祭で上映された後、2017年9月15日よりネットフリックスで配信されています。

主人公の少女の目を通して見るクメール・ルージュ時代ですが、少女のセリフはあまりありません。その代わり少女の表情のアップが多用されています。

そして印象的なのは、周囲の自然の美しさや静けさのシーンがちりばめられていることです。それが生活実態とはあまりにも対照的です。おそらく少女の心の真実、そして記憶にあったのはこの美しい自然だったのでしょう。

5歳という年齢では、政治的なこともわからず、どうしてお父さんが殺されたのか、銃を持たされて行軍しなければならないかもわからず、大人がいう通りにしていただけです。そうしなければ、生きていけないことを本能として感じていたんだろうと思います。

それにしても、だんだんクメール・ルージュの兵士になり、銃を構えてほほ笑む子どもたち、美しい花をめでながら、目の前の人間を殺す、このギャップには悲しみと恐ろしさを感じます。こういう現実は今でもアジアやアフリカで起こっていることです。

クメール・ルージュ時代は悲惨だったね、生き延びて良かったね、というだけの映画ではなく、もっと人間の本質的な怖さみたいなものを感じさせる映画であったと思います。

 

 
 
 

| | コメント (0)

2025/10/05

NHK『ばけばけ』と丑の刻参り

287a3664

 

昨日NHK『ばけばけ』ダイジェスト版ちょっとだけ見たら、丑の刻参りのシーンが出てきました。

ある神社は猫神様を祀っていますが、ここの丑の刻参りの由来には猫が関わっています。祟る猫の力にあやかるということでしょうか。この猫神社は『猫神さまをめぐる旅』でも掲載予定です。

 
 
 

 

 

 

| | コメント (0)

2025/03/17

モンゴルの蒼きオオカミ

10_29_20250317061401

 

来週の「ダーウィンが来た」はモンゴルの蒼きオオカミ。

「上天より命ありて生まれたる蒼き狼ありき。その妻なる惨白き牝鹿ありき」

これは『元朝秘史』にある一節。テュルク系・モンゴル系の牧畜民族には狼祖神話があります。



 

| | コメント (0)

2025/01/21

NHK大河『べらぼう』綾瀬はるか演じる「九郎助稲荷」

287a9401_20250121070601

287a9408

287a9389

287a9387

287a9429

NHK大河『べらぼう』

ドラマは、明和9年2月29日(1772年4月1日)に発生した大火のシーンから始まります。主人公 蔦屋重三郎が九郎助稲荷の祠を背負って火事から逃げるというシーンがありました。

1772年というと、狼信仰が江戸でも盛んになり始めているころです。

綾瀬はるかの九郎助稲荷の狐像は白く、立耳、立尾の典型的な狐像です。

九郎助稲荷神社は、現在吉原神社に合祀されていています。

ここには残念ながら狐像は見当たりません。その代わり、りっぱな狛犬が立っています。

境内はさほど広くはないのですが、参拝客がひっきりなしに訪れて、賑わっている印象です。「大河効果」なんでしょうね。

当時、新吉原には、北に榎本稲荷、南には九郎助稲荷、東に明石稲荷、西に歌丸稲荷が鎮座していました。

九郎助稲荷が勧請されたのは明暦四(1658)年とする説が『浅草志』にあるようです。

遊郭の経営者は商売繁盛を願って稲荷神社を祀ったのでしょうが、遊女たちは、好条件での見受け話が来るように、性病に罹らないように祈っていたようです。当時梅毒が流行っていたらしい。

吉原大門は江戸に大火が多かったので、何度も建て替えられています。この写真は明治14年ころの吉原大門。

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2024/09/23

「光る君へ」では、彰子の出産と「五十日の祝い」のシーン

Img_6281

287a6041

 

昨日の「光る君へ」では、彰子の出産シーンがありました。魔物を祓うシーンがありましたが、出産という異常事態は、狐や物の気の憑依と考えられていたということなんですね。

中村禎里著『狐の日本史』には、
「平安時代における六字経法修法例の一覧を見ると、十二世紀に入ってから、御産祈祷に六字経法が修せられる例が非常に多くなることがわかる。では、なぜ安産に六字経法が有効なのだろうか。出産時には、母と生まれようとする子の生命は、一種の危機状況におかれる。その危険を象徴するするのは、狐や物の気の産婦への憑依であった。密教の加持祈祷は、これを解除しなければならない。」とあります。

そして生後50日後の「五十日の祝い」、今でいうところの「お食い初め」の儀式のシーンも。なにか白いドロドロしたものを口に含ませていましたね。

平安時代には生後50日目に、流動食の一種、重湯の中へ餅片を入れ、赤ちゃんの口に少し含ませる「五十日の祝い」がありました。また、生後100日目には「百日の祝」がありました。

現代の「お食い初め」では、特に関東では、「餅」が「歯固めの石」に変わってきたようです。関西では「歯固めの石」ではなく「タコ」などを使うようです。

| | コメント (0)

2024/05/10

NHK『フロンティア ヒトはなぜ歌うのか』

Kj_bgcvr

NHK『フロンティア ヒトはなぜ歌うのか』を観ました

ヒトはなぜ歌うのか? なぜ言葉を忘れても、歌は忘れないのか?

アフリカ、バカ族の歌を分析したのは面白かったですね。

「集団の絆」を深める説。なるほどと思います。

また音楽によって高齢者の脳の機能が向上するのもわかってきて、認知症の役にも立つかもという希望の持てる話。

そして、この番組を見ていて、思ったことがあります。もしかしたら「言葉」の前に「音楽(ビート)」があったのでは?

繰り返し同じ間隔で物を叩けばビートになる。そして人間は「ビート予想」が優れているという。と、すれば、他の人がビートを予想して、次の一打を叩けばある意味それはその人に対しての「共感」を表すんじゃないでしょうか。「おお、お前、わかってくれるのか」と。

ヒトが他の霊長類と大きく違うのは「他人との共感」と心理学講座で習った気がします。チンパンジーは賢いけれど共感力に欠けるそうです。

ビート予想は言葉がなくても成り立つから、言葉の前にビート(音楽)があったということはないんでしょうか。あるいはビートが言葉のルーツとか、そんな研究はされてないんでしょうか。

と思って調べてみたら、人間の言葉が歌から始まったという説がやっぱりあるんですね。おもしろい。 

 

 

 

| | コメント (0)

2023/08/31

映画『福田村事件』関東大震災から100年

1_20230831091901(映画『福田村事件』公式サイトより)

 

そのうち観なければ、と強く思う映画です。

映画『福田村事件』公式サイト

https://www.fukudamura1923.jp/

関東大震災直後、避難民から「朝鮮人が集団で襲ってくる」「朝鮮人が略奪や放火をした」との情報を聞いた福田村の村人が、疑心暗鬼に陥り、人々は恐怖にかられます。そして混乱のなかで善良な村人たちがだんだんと過激化していき、ついには惨劇が起こってしまいます。

昨日、NHKクローズアップ現代で、監督のインタビューがありました。監督は、人間の集団行動に注目しているようです。肉体的に弱い人間が地球上で生き延びることができたのも、集団行動をとることでした。(集団で狩をすることはオオカミから学んだという説は、何度も書いていることですが)

でも、集団行動には副作用があります。とくに平時は問題ないのですが、有事になったときです。恐怖や疑心暗鬼にとらわれ始めると、「個」はなくなり「集団」の意志が暴走し始めます。不安や恐怖を感じたとき「集団」は、ひとつにまとまろうとし、異質なものを見つけては攻撃し排除しようとします。

こういった悲劇を起こさないためには?という質問に、監督は、「集団」を主語にしないことが大切だと言います。その通りですね。ただ有事には「個」を保ったとしても、「集団」の力は強く、どうしようもなくなる場合があるとも。まさに「福田村事件」がそうだったのでしょう。

心理学者スタンレー・ミルグラムが行った服従実験というのがあります。ナチス政権下でユダヤ人虐殺に関係したとされるアイヒマンに由来して「アイヒマン実験」ともいわれますが、普通の人たちも、ある状況の元では、権威者に命じられるままに、罪のない人に電気ショックを与え続けるという実験です。

それと並んで有名な心理学的実験は、フィリップ・ジンバルドの監獄実験というものがあります。

スタンフォード大学で模擬刑務所を作り、大学生を囚人役、看守役に分けて生活をさせるものでした。参加者たちは自分の「役」に没頭し、看守は攻撃的、威圧的になってゆき、囚人役はより服従的になっていきました。でも、囚人役が心身に異常をきたしたので、2週間の実験を取りやめ、6日間で終了したという実験です。

普通の人たちが「役」にはまることで、どんなふうに変わっていってしまうのか、見ていると恐ろしくなります。なぜ恐ろしいかというと、「彼らは特別な人間」ではないからです。

ミルグラムがいうところの「状況の力」がいかに人間の行動に影響するか、俺たちはなかなかわかりません。

たとえば、ある犯罪が起こったとすれば、「あいつは残忍で非情な性格だからあんなことをやったんだ」と、つい結論してしまいます。それは「あいつは異常で俺たちとは違うのだ」と思い込むことで、どこか安心したがっているからでしょう。「俺は犯罪を犯さない」という(根拠の無い)自信を持ちたいのです。

ところが「状況の力」を過小評価し、個人の性格などに理由を求めてしまうのは、人間が共通して持っている「基本的な帰属のエラー」と呼ばれるものだそうです。

つまり状況しだいでは、どんなに「善良な人」も、最悪なことをやってしまいかねないということです。ということは、「俺もそうやってしまうんだろうか」という不安がぬぐえないことになってしまいます。

でも、「状況の力」のことを恐れているなら、逆に、そういう状況を作らない、そういう状況を拒否することで、最悪な行動を取らなくてすむかもしれません。

「自分はそんなことはしない」という自信を持っている人ほど危ないとも言えるわけですね。「(自称)善人」の危うさはここにあるようです。

 「福田村事件」のような状況はまた生まれる可能性があります。いや、現に今、そんな危ない状況が生まれているように見えます。

 たとえば、福島第一の原発処理水問題。インタビューである中国人は、正確には忘れましたが、こんなふうに言っていました。これは世界中の環境を破壊し、人々を不幸にします、といったようなことをです。

一方の日本人も、中国人は科学的ではないとか、なんとか。両方とも、中国人は主語を「世界の人々」にし、日本人もだんだんと「個人」の意見ではなく「日本人」の意見のように言い始めている人たちがいます。「お前が世界の人や日本人を代表しているわけじゃないだろ?」と突っ込みを入れたくもなります。気持ち悪い正義感のような物がにじみ出ています。

「中国人」「日本人」として応酬が始まると、だんだんエスカレートしていき、それこそ監督が言っている主語を「集団」に持っていく危ない兆候といわざるをえません。

監督が言っていることはこういうことなんだろうな。福田村事件の犯人たちも、国のためにやった、みたいなことを裁判で言っていたらしい。罪悪感がなくなっているんです。これも「個」を離れ「集団」(この場合は日本)が主語になった恐ろしさです。

| | コメント (0)

2023/07/31

【犬狼物語 其の六百七十六】 映画『石岡タロー』を観て

170514_0(石岡駅前広場 みんなのタロー像)

 

170514_2(石岡駅前広場 みんなのタロー像)

 

170514_3(石岡駅前広場 みんなのタロー像の後側)

 

170514_4(石岡駅の待合室 タローの紹介パネル)

 

170514_5(土浦市 タローが葬られた墓地)

 

170514_6(土浦市 タローが葬られた墓地 「愛」の碑)

 

映画『石岡タロー』の試写を観ました。

茨城県のJR石岡駅西口前の広場で「みんなのタロー」という新しい犬像の除幕式が行われたのは、2017年4月15日のこと。

忠犬タローの物語を語り継ごうと、犬と子どもたちのブロンズ像が建てられました。

そして、今回は、映画にもなりました。全国の犬像の中には、映画になった犬も多くいます。松本市の「校犬クロ」や「ガイド犬・平治」などです。タローもその仲間入りです。

タローが最初の飼い主に会いたくて何年間も学校から駅に通ったのですが、その犬の持っている一途さに胸がキュンとしてしまうわけですね。そして映画はそれを見守った石岡の街の人を描いています。これほど街ぐるみで飼っていた犬は珍しいかもしれません。いや、昔は放し飼いの犬が多く、自由に歩けたし、今の東南アジアで見る犬たちのような犬が昔はたくさんいたと思います。だから昔は良かったというつもりはありませんが。時代が変われば、犬を取り巻く事情も変わってくるのは当然のことです。

だから犬の話ですが、人の話、時代の話でもあります。タイトル『石岡タロー』の「石岡」にはそんな街の人や昭和という時代を抜きには語れない物語であることを思わせます。当時の車やバイクが多用され、昭和の街並みにこだわった感じがするのも、この時代を特別に描きたかったからではないでしょうか。

その物語に過剰な演出もなく、淡々とつづられるタローと石岡の人々との日常生活に、心地よさや懐かしさを感じたのでした。

10月20日には一般公開されるようです。まずは茨城県で先行上映し、いずれ全国で上映されることになると思います。

 

 

 

| | コメント (0)

2023/07/27

映画『石岡タロー』の試写会

170514_2(石岡駅前広場 みんなのタロー像)

 

_87a3775 (みんなのタロー、オリジナルの石膏像)

 

いよいよ映画『石岡タロー』の試写会が29日に迫りました。どんな映画になっているか、期待を持って観たいと思っています。

これは事実を元にした映画(もちろんいろんな演出はあるでしょうが)なので、「ネタばれ」もないとは思うので、以下、もう一度、タローとはどんな犬だったのか、ということを紹介しておきます。(詳しくは『犬像をたずね歩く』に書いています)

1964(昭和39)年、石岡市立東小学校に一匹の犬が迷い込んできました。その犬はタローと名付けられ、学校で飼われることになりました。

その後、タローは、学校から2km離れたJR石岡駅に通うようになりました。地元の人たちは、誰かを待って駅通いをしているのでは、と思っていたようです。

81年の夏、タローは亡くなりました。学校で追悼式が行われ、石岡市には動物の墓地がなかったので、20kmほど南にある土浦市内の墓地に葬むられました。

その後、奇跡は起こります。

同小創立50周年記念誌にタローの写真が載りました。その写真を見て、元の飼い主である女性から連絡がありました。当時彼女は自宅のある玉造から、石岡の幼稚園に電車で通っていたのですが、45年前に石岡駅で別れてしまった愛犬のコロではないかと。

毎日忙しい両親に代わってコロが自宅から玉造駅まで見送ってくれていました。頭をなでると、自宅に帰っていたのですが、その日、頭をなでるのを忘れたのか、コロは電車を降りずに、そのまま石岡駅までいっしょに来てしまいました。

石岡駅では、「お嬢ちゃんの犬?」と、改札口で駅員に聞かれました。犬を乗せたことを怒られると思って首を横に振りました。それでコロは追い払われてしまいました。それがコロとの別れになってしまいました。

彼女はショックで熱を出し、10日間寝込んでしまいました。家族は石岡駅周辺へ6回も捜しに行きましたが、見つかりませんでした。

そして45年後、コロの消息を知ったという奇跡の物語です。

彼女はずっと、後悔と自責の念にかられていたようですが、コロはタローとして子どもや町の人に愛された幸せな人生を送ったことを知って、安堵したのではないでしょうか。

 

| | コメント (0)

より以前の記事一覧