田毎の月

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好きな言葉に「田毎の月」というのがあります。
日本人の自然に対する思いが凝縮されている言葉だと思っています。
最近、「田毎の月」の写真を撮る機会が多かったので、またあらためてこの言葉について考えてみたいと思います。
「田毎の月」は、すべての田んぼの水に月が映る光景で、松尾芭蕉など俳人たちは優れた句に詠んでいます。また歌川広重は『六十余州名所図会』の「信濃 更科田毎月鐘台山」(嘉永六年八月)や『本朝名所』の「信州更科田毎之月」などに、段々になった複数の田んぼに月を描いています。
しかしどんなに田んぼの数が多くても、実際には月はひとつしか映りません。だから厳密には(科学的には)「田毎の月の写真を撮る」というのは不可能です(多重露光は別)。
でも、ちょっと待ってください。「田毎の月」は本当に「嘘」なのでしょうか。
前から「田毎の月」についてはHPに写真ギャラリーを作ったり、思いを書いたりしていましたが、あるHPやブログで「田毎の月」を科学的に説明しているのがありました。あくまでも科学的正しさを追求する考察として面白いものですが、おそらく夜の月をじっくりと時間をかけて見たことがない人たちなんだろうなと思いました。
その瞬間は確かに月はひとつですが、あたりを歩いてみましょう。すると、月は次々に田んぼを移動していきます。結果的にすべての田んぼに月が映ることになります。
それともうひとつ。時間が経てば月が次々に田んぼを移動していきます。
「田毎の月」の本質は、「同時にすべての田んぼに月が映る」という特殊現象(超常現象)ではなくて、「田んぼの水に月が映った光景を見て、美しいなぁと思う感性」にあるのだと思っています。
この言葉の持つ世界観を理解しようとしないかぎり、言葉は生きてきません。科学的には「嘘」として切り捨てられてしまっては寂しすぎます。
空間だけではなく、時間も考慮すると、この「田毎の月」が見えるようになります。嘘ではないのです。と言うよりも、芸術作品を科学で論じてもあまり意味がありません。ピカソの絵を見て、顔の向きがおかしいとは言わないのと同じです。「田毎の月」はピカソの絵と同じ多視点の表現なのです。
フランスの画家、マルク・シャガールは、人から「現実ではなくて想像上の物を描いている」と言われるのが嫌いで、「心的現実を描いている」と反論したそうです。「田毎の月」も同じ、心的現実(心象風景)を描いたものと言えるでしょう。
調べたわけではありませんが、田んぼの水に月を映して鑑賞する文化を持っているのは日本だけなのではないでしょうか。もしかしたら中国にはあるのかもしれませんが、今のところ俺は知りません。
月見の慣習自体は中国から入ってきたものらしいのですが、<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E8%A6%8B">Wiki</a>には、「平安時代頃から貴族などの間で観月の宴や、舟遊び(直接月を見るのではなく船などに乗り、水面に揺れる月を楽しむ)で歌を詠み、宴を催した。また、平安貴族らは月を直接見ることをせず、杯や池にそれを映して楽しんだという。」とあります。
それと少なくとも複数の田んぼがある棚田が前提です。たとえばタイやベトナムの広大な水田に月が映ってもそれほど特殊な感情が沸き起こるのかどうか。やはりここは狭くて小さな棚田の田んぼだから趣があるのではないかと思います。
「すべての田んぼに月が映る」というのは、日本人の心象風景なのです。写真では難しいけど、俳句や絵では可能になる。
日本人の発想で面白いと思うのは、つまり田んぼそれぞれ、ひとつづつが、全世界であり、全宇宙であるという感覚です。
小さい田んぼが「全宇宙」とは大げさだ、と反論されるかもしれません。
でも、日本人にとって、大きさは関係ないのではないかと思います。小さな1枚の田んぼに生きている植物や小動物たち、そして水が循環し、2千回も稲を作り続けている。
極端に言えば、「すべてがそこにある」のです。それが日本人の世界観、自然観ではないかなと思うわけです。最近欧米でもてはやされている盆栽なんかもそうですね。大きな自然をわざわざ小さい自然に作り変えている。日本人にとっては同じなんですね。大きくても小さくても。1枚ごとの田んぼがひとつの宇宙だということの表現ではないかなと思うのです。すべての田んぼに月が映ってほしいという願望でもあるのではないでしょうか。