子供の自殺は9月1日が多いと聞いて思い出したこと
報道番組を見ていたら、子供の自殺は9月1日が多いと聞いて思い出しました。
こういう問題は微妙だし、専門家でもないので、個人的な話をします。
俺は自殺までは考えなかったような気がしますが(情報も無くてそういう発想にはならなかった時代だったし)、どうやってあの時期の危機を脱出したかもよく覚えていません。
集団が苦手ということだったんだろうと思いますが、幼稚園・小・中学校時代は、突然学校に行きたくなる日があり、「今日学校に行きたくない」というと、親は何も聞かずに休ませてくれました。それが嬉しかったことは覚えています。
そういう意味では、いいかげんな親だったことが幸いしたのかもしれません。今から思えば、休ませてくれたことが「逃げ場」になっていたからです。
大人になってからこのことを親に聞いたら、「何かあるんだろうから休ませようと思っていた」そうで、「いいかげんな親」でもなかったなと感謝しなおしました。
どうして行きたくないのかは自分でもわからなかったのです。それを「どうして?」なんて聞かれたら俺は爆発していたでしょう。(たまに爆発していましたが)
「腹が痛い」とか「頭が痛い」とか言って仮病も使いました。子供ながらに病気のほうが理解されるだろうと思ったのかもしれませんが、正直、本当の理由は自分でもわからなかったのです。
別にいじめられていたわけでも、勉強が嫌いだったわけでもありません(特定の科目を除いて)。ただ集団で同じことを同じ時間でやることが苦痛だったのは覚えています。たまに給食を時間内に食べることができなくて、泣いたこともあります。いつも、というわけではないのですが、実際吐き気がして喉を通らないのです。とくに覚えているのは、食パンの妙な塩味です。
それと集団での複雑な人間関係でしょうか。だから放課後少人数の仲の良い友だちと遊ぶのは楽しかったし問題ありませんでした。
ところで、子供の年間自殺者が300人を越えているという痛ましい状況ですが、自殺予防だといって、「命の大切さ」という正論を説かれても、あまりピンとこないかもしれません。俺の経験からは。
今の子供は賢いから、「命の大切さ」なんて百も承知だと思います。死にたくなるのはそんなことにはあまり関係ない気がします。(いじめを受けているなど、具体的な原因がある場合は別)
もっと個人的なことです。ここから逃げれば、もっと楽しいことがあるかもしれない、といった些細なことに気がつくだけでいいような気がします。
「明日、あのお菓子を食べてみようかな」と思い、そのお菓子のおいしさを想像して、とりあえず死ぬのはやめようかなと、そんな程度のこと。あるいは大好きなペットのワンちゃんのお腹をなでたときの感触。死んだら、もうあの手触りを楽しめないんだよ、とか。
騙し騙しでもいいので、何とかこの時期の危機を脱出できれば、世界は広いんだなぁと気がつき、どんな生き方・考え方をしても、まぁなんとかなると思える日がきっと来るのではないでしょうか。(そう信じています)
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