« 2015年10月 | トップページ | 2015年12月 »

2015年11月

2015年11月22日 (日)

夢日記 ISの施設で地面に伏せる

【夢日記】

ISの施設(国境検問所)の入り口か。

多くの人が地面に両手をついて、足を投げ出している。まるで腕立て伏せをしているように見えるが、何かの許可を求めているらしい。

俺も真似して地面に伏せるとISの幹部らしい男が銃を持って近づいてきた。不審者だと思われたら殺されるかもしれない。顔を上げずにその男の足元だけを見ていた。銃を持ったまま男は俺のことを見下ろしているのを感じる。体はこわばって動かない。

   ☆

この夢を見たのは、先日のパリでの同時多発テロで、襲撃されたカフェの映像を昨日見たからだと思います。

とくに、カフェの入り口近くに隠れた女性客に対して、テロリストは銃口を向けましたが、銃の故障なのか、それとも呼び戻されたのかはわかりませんが、女性客は奇跡的に撃たれなくて助かったのです。これが強烈に印象に残りました。

この女性の恐怖心といったらなかったでしょう。その恐怖心をリアルに想像してしまいました。

それと、地面に両手を付く姿勢は、この前観た映画『超高速!参勤交代』の大名行列を見送る人たちの姿勢が混ざっていると思われます。
 
 
 
 
 

| | コメント (0)

2015年11月12日 (木)

3歳半の記憶

先日、ある雑誌の編集者たちと打ち合わせをしたとき、子供のころの記憶が話題に上りました。

「3歳半の記憶」については以前にも書いています。初めは依頼された文章中に書いたことだったのですが、あとになるに従って、この「3歳半の記憶」が、ほんとうに俺が実際体験した記憶なのだろうか?と自信がなくなってきたのです。

なぜ「3歳半」かというと、3歳半離れている妹が生まれたときの記憶だからなのですが、あまりにも視覚的、聴覚的、嗅覚的に、イメージが鮮明なのです。いや、鮮明すぎるのです。だからかえって怪しいと感じるのです。

人は、想像したことと、実際にあったことの区別は、そのイメージの鮮明さで判断しているらしい。イメージが鮮明なら、ホントに体験したこと。イメージがあいまいなら想像や、夢で見たことだろうというふうに。

偽記憶を植えつけられる話は前に書きましたが、植えつけられやすい人は、イメージ力に優れた人らしい。映像関係の仕事をしていたら、その可能性は大ではないでしょうか。

記憶のイメージが鮮明なら、それはホントに体験したことなのだと信じやすいということでもあります。

そこで「3歳半の記憶」なのですが、疑うのは、稲が積み上げられた部屋を俯瞰しているイメージもあるからです。天井の方から部屋全体を見渡すような、そんな位置から3歳半の子供が見れたのか? ちょっと考えにくい。

でも、俯瞰したイメージだけは想像したもので、あとはホントの記憶だとも考えられるし、とにかく、記憶というのはあいまいで、信用できないのです。

「記憶とは水に溶けたミルクのようなもの」と心理学者のロフタスは言っています。記憶というのは、メモに書いたものを引き出しにしまっておいて、取り出しているのではないらしいのです。

そこを自覚しておかないと、たとえば、事実は違っているのに、「自分は見た」という記憶によって(思い込みによって)、事件の証言で人を冤罪に陥れてしまう恐れもあります。

自分の記憶で一番初めのものは「最早期記憶」といいます。俺の場合は、この「3歳半の記憶」か、あるいはもうひとつあるのですが、母親におんぶされているところです。だから映像的には母親の背中越しに見える光景です。仏壇に座った母親がなぜか泣き始めたという記憶です。

どっちの記憶が早いのかはわかりません。おんぶされていたので、もしかしたら、こっちの方が早いのかもしれませんが。

三島由紀夫は自分が産湯につかっている記憶があったといいます。ずいぶん早い記憶ですね。たいていの人の最早期記憶は、3歳前後らしい。その前の記憶が思い出せないのは「幼児性健忘」と呼ばれます。

なぜ、みんな3歳ごろの記憶が最早期記憶なのかといえば、そのころに自意識が芽生えることとkんけいがあるらしい。たしかに「妹が生まれた」というのは、自分と妹は違う存在だとわからなければだめだし。

三島由紀夫の最早期記憶は、「産湯につかる」という意味がわからなければ、記憶できないような気もするし、言ってはなんですが、とても怪しい。彼の作られた記憶かもしれません。いや「嘘だ」というのではありません。そもそも記憶とは「水に溶けたミルクのようなもの」で、あいまいで不確かなもの、らしいので。
 
 
 
 

| | コメント (0)

2015年11月 4日 (水)

人の顔が覚えられないコンプレックス

昔から人の顔が覚えられないことにコンプレックスを持っています。

一度会った人が、何日か後に会ったとき、前に会ったかどうかわからない、という体験が多くあります。先方は「ひさしぶりですね」と声をかけてくれるので、たぶん会った人なんでしょうが、どこで会ったかわからない。

俺は、この会場にいるんだから、この関係者に違いないと思いながら、探りを入れます。運がいいときは、それでようやく「あのとき会った人だ」と思い出すこともあるし、運が悪いと誰だかわからないまま、当たり障りの無い話をして分かれます。これはひやひやものですよ。相手が「僕のことを覚えていないんだな」ということを悟られないようにしなければならないので。

こんなことは大なり小なり、みんなにあるのかもしれないし、「俺だけそうなんだ」というのが勘違いならうれしいのですが。どうなんでしょうか。

このコンプレックス(思い込み)で、なおさら人に会うのが怖くなってしまっていたらもったいないことだとは思っています。パーティのようなたくさんの人が集まるところが苦手になったのは、このコンプレックスによる悪循環が影響しているのかもしれません。

人間はとくに人の顔に敏感だそうです。逆三角形の位置にある3点を見ると、「顔」を連想するらしい。生まれたばかりの乳児も、母親とそうでない人の顔の区別はついているらしい。

考えてみれば不思議です。人の顔は千差万別ありますが、そんなに変わりはないはずで、その微妙な差で、それが誰なのか、どういう感情なのかを、瞬時に判断しているわけです。それは神業といってもいいでしょう。

顔の判断は「平均顔」説というのがあります。たとえば日本人なら日本人の顔の平均を知っているので、そこからどれだけ外れているかの「差」で判断しているという。外国人が日本人の顔がみな同じに見えるというのは、日本人の「平均顔」を知らないからで、反対に、日本人は外国人の「平均顔」を知らないので、みな同じに見えます。

外国旅行すると、その国の滞在が長くなるにしたがって、その国の人の顔の区別がつきやすくなるという体験は俺にもあるので、この説は説得力があります。

で、最初に戻りますが、ではなぜ俺は人の顔を覚えられないのか、という疑問です。いろいろ考えてみました。

今まで学んだ心理学的知識と、俺の勝手な推理ですが、もしかしたら、自分の顔に対するコンプレックスが、関係しているのかもしれないですね。つまり顔の「差」なんて無くなってほしいと無意識で考えているかもしれないということです。「差」がなくなれば、顔の良し悪しもなくなり、コンプレックスは解消される・ ・ ・。これって、かなり深い自己分析でしょ?

当たっているかどうかはともかく、俺は人の顔の「差」に対して、何かの理由で、あまり敏感ではないということだけはいえると思います。進化的には遅れているのではないでしょうか。

「相貌失認」という病気があるそうです。近しい人や有名人の顔がわからなくなる病気です。それと「カプグラ妄想」という症状も。身近な人の顔を見て、誰だかはわかるのに、表情がわからない。だから能面のように感じ、ロボットや宇宙人に入れ替わったと本気で信じるらしい。

人の顔の判断は特別なんですね。人の顔色を窺うことか、複雑になった人間社会で生き抜くために身に着けた特殊技能なのです。
 
 
 
 

| | コメント (0)

« 2015年10月 | トップページ | 2015年12月 »