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2016年3月

2016年3月29日 (火)

写真や旅がセラピストの役目をはたす

放送大学の単位認定試験の結果、心理学科目修得単位はこれで38.5単位になったので、「認定心理士」申請の要件「36単位以上」は満たすことができました。

あとは申請する手続きです。これには3か月くらいかかるようです。まずは、修得単位の証明書をもらうために大学に単位表を送りました。それが返信されてくるのが2か月後らしい。

それから日本心理学会に本申請しなければならないので、もし落とされることなく、無事に資格を取れたとしても、今年の夏くらいにはなってしまいそうです。

急いでないので時間はとくに気にしませんが、景観や風景など、今まで関心があったことについて、もっと自信を持って原稿を書けるのはいいかなと思っています。

そして新しく、講演会やセミナーやトークショーの講師と主催者をマッチングするサイトに登録することにしました。

今までも講演会やセミナーは頼まれればやってきましたが、これからはもっと積極的にやってみたいと思います。

テーマはもちろん棚田や旧暦もですが、今度は心理学を生かしたテーマにも取り組んでいきたいと思います。芸術療法、表現療法、写真療法としての写真と旅について。

イメージを活用して自分の創作活動に生かしたいと思って心理学を勉強し始めたら、写真や旅がいかに元気をくれたか、生きる上での助けになったか、自分にとってはセラピストの役目を果たしていたことがわかってきました。「写真療法」とか「表現療法」とか「芸術療法」とか、ちゃんと名前まであって、内容を知っていくうちに、これは俺が若いころからずっと抱えていた問題の解決策になるのでは?と思ったのでした。

それを発信する方法です。講演会やセミナーやトークショーは適しているのではないかと。

以前、バイオリニストの葉加瀬太郎さんのラジオ番組に出たとき、葉加瀬さんから「あおやぎさんにとって旅とは何ですか?」と聞かれた時、「やらざるを得ない、仕方ないもの」と思わず答えました。

「外に出たい」という強い衝動です。水や空気がないと死んでしまうように、旅がないと精神的に死んでしまうのです。だから逆に「旅しているときは精神的に安定する」と言うこともできるのです。

そのときは葉加瀬さんからも「なんて大げさな」とも思われたようだし、俺自身も、大げさな答えだなぁと少し恥ずかしくなりました。でも、今考えると、旅はまさしく俺のセラピストだったのです。無意識に答えことが、数年たって当たっていたことがわかりました。

詳しくは機会をあらためてまた書こうと思いますが、白いキャンバスに体を使って軌跡を描くようなイメージがあって、俺にとっては旅も「表現」のひとつなのです。

ただし、こういった切羽詰まった人は、一般的ではなく、特殊な人だけなのかもしれません。そこは自覚しているつもりです。副作用の強い薬の処方箋かもしれないからです。

でも、だからこそ、悩んでいたり、先行きが見えなくなっている人に少しは参考になることもあるかもしれません。
 
 
 
 

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2016年3月28日 (月)

パリで出会った東洋人。「二重身(ドッペルゲンガー)の現象」

『河合隼雄著作集 ユング心理学の展開2』(岩波書店1994)に、「二重身(ドッペルゲンガー)の現象」というのが書いてありましたが、似たような体験があったので興味をひかれました。

ところでこの本によれば、江戸時代に「影のわずらい」とか「影の病い」と呼ばれるものがありました。またの名を「離魂病」。これは自分自身の姿を見ることだそうです。

自分の姿を見ると死ぬという言い伝えは、日本だけでなくドイツにもあるそうです。ただ魂が抜けた話でも、中国にはハッピーエンドになる話もあるようで、一概に自分の姿を見ることが悪いかどうかは言えないようですね。

「二重身」というのは、もうひとりの自分の姿が見えたり、その存在が感じられたりする現象のことですが、心の内に別人格があってそれが交互に出てくる「二重人格」とは違います。

芥川竜之介も二重身の体験があったといわれ、『二つの手紙』という二重身をテーマにした短編があるそうです。

二重身の体験には鏡が関わっていることがあります。フロイトもこういった体験がありました。旅行中、寝台車で、一人の老人が自分の部屋に入ってきたので、間違えてますよと説明しようと思ったら、ドアの鏡に映った自分の姿だったという体験です。

これは自分の映像を他人だと思ったので、二重身とは真逆の体験ですが、自分に対する存在感について不安を引き起こす点で、精神的には二重身体験と共通するものがあるのだそうです。

そこで、俺の体験はこういうものです。フロイトのと少し似ていますが。

それは20代に、ヨーロッパを旅していたときのことです。金がなくなって、いくつかバイトをしたのですが、最後に行き着いたのがパリの韓国系フランス人経営の日本・韓国レストランでした。

ある日、レストランが非番だったのか、街を歩いていたら、向こうから東洋人が歩いてきたのです。その姿はちょっと薄汚れていました。

当時は、薄汚れた格好をした東洋人は、日本人バックパッカーが多かったので、「あ、日本人だ」とピンときて、挨拶しようか、どうしようか迷いながら進んでいくと、向こうもこちらを見ながら歩いてくるのです。

そして、数メートルに近づいたとき気が付きました。そうです。それは店のガラスに映った自分の姿だったのです。

苦笑してしまいました。どうして自分だと思わなかったのかと。

長く外国へ行っている人は体験するのかもしれませんが、自分の目がフランス人になっているんですね。つまり、俺自身の姿(見かけ)も、周りのフランス人と同じだと思い込んでしまっていた、ということなんだろうなと思いました。あくまでも錯覚なのですが。慣れといってもいいかもしれません。

でも、この二重身の話を聞くと、この体験が別の意味を持っていたんだなとあらためて思うのです。

二重身体験の背後に、「ぼくは本当は何なのか?」とか「ぼくとは何か、人とは何か?」といった根源的な問いが存在していると、この本では指摘しています。

俺の体験で言い換えれば「日本人とは何か?」という問いになるでしょうか。当時を振り返ると、確かにそれはあったかな。

日本のど田舎から突然ヨーロッパへ行って、フランス人の中で暮らしていくということは、日本人というものを逆に意識せざるを得ない場面が多くあったはずです。

でも、「あの東洋人は、俺ではない」という否定から入っているわけですね。内心ではフランス人のようになりたいという(見かけも、文化的にも)願望があり、パリのレストランで働いてもいるし、既にそうなっていると自分では思っていたのに、でも、そうではないんだということを薄汚い東洋人の姿を見せつけ、俺に現実を突き付けてきた体験だったのかなと思います。

日本人はあくまで日本人でしかないんだということです。当時、正直言えば俺も西洋人に対して劣等感があったのは確かです。否定から入ったのはそのせいではないかと。今は、劣等感はなくなったと思っていますが、わかりませんね、心の中は。
 
 

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2016年3月21日 (月)

【夢日記】 悪ガキ

2階に寝ていたら表が騒がしくなった。

朝市の商品を悪ガキたちが取って食べているらしい。

俺は「何やってんだー!」と怒鳴った。

窓が明るくなった。悪ガキたちが懐中電灯を向けているらしい。

そして家の壁がどんどん叩かれた。

悪ガキたちに襲われるかもしれない。

俺はたいへんなことになりそうだ、怒鳴らない方がよかったのか?と心配になった。
 
 
 
 

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2016年3月14日 (月)

【夢日記】 インド人のサドゥーと役場の霧

インド人のサドゥーの男の運勢を変えるためなのだろうか、俺はサドゥーの知り合いに頼まれて、彼の目じりと瞼の2カ所、ハサミで切ってあげた。

これでいいのだろうか?と疑問はあったが、本人も満足しているようだった。

霧の中、役場の1室に入ったら、職員の男がひとり。声をかけて、隣の部屋の中での撮影を頼んだ。

部屋の中にも真っ白な霧が入っていていた。

ファイルか付箋か、遠くにある方が白くかすんでいるのは霧のせいだなと思った。

しばらくすると、霧が無くなっていった。

仕事が始まるようで、職員の女がやってきた。彼女にも挨拶して役場を出た。
 
 
 
 

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2016年3月10日 (木)

【夢日記】 湖岸に立った寺院

インドの高原地帯。

荒涼とした風景が広がる。

崖っぷちに這っていって下を覗くと、湖が広がっていた。

透明な水の中に、人間の顔のような飾り物がたくさん並んでいて、それが水面ぎりぎりにあるので、ある物は水面から出て、ある物は潜っていた。

薄いエメラルドグリーンのこの風景は神秘的で美しかった。

100m先に湖岸に立った寺院があった。

明日下山するつもりだったが、こんなにいいところなら、もう一泊してみようと思った。

どうやって寺院へ行くのかと思ったら、白人女性がを上ってきた。足場の悪い砂の急坂が目の前にあった。ここから下ればいいんだなとわかった。
 
 
 
 

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2016年3月 7日 (月)

【夢日記】 帰国便

アジアか中東のどこかの外国にいた。

街の広場で、日本人カップルと出会った。彼らはお土産を買ったがぼられて、俺にその話を聞いてもらいたいらしく、茶屋に誘われた。

話を聞き始めたが、俺は帰国便に乗るための準備があったことを思い出した。

時計を見たら7時40分だった。出発は9時だったが、20分あれば準備ができる自信があった。まずはトイレに行こう。

彼らに事情を説明して、彼らと別れた。

でも、国際便では、2時間前に空港に着いていないといけないことに気が付いた。どう考えても間に合わない。
 
 
 
 

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2016年3月 1日 (火)

アメリカ合衆国大統領選挙候補者トランプ氏で映画 『クラッシュ』を思い出す

今日はアメリカの大統領予備選挙の「スーパーチューズディ」です。

トランプ氏の勢いが止まりません。今日の投票でどうなるんでしょうか。

あの物言い、差別主義者そのものなのですが、過激発言でニュースになり、宣伝費をかけずに話題を集めるところも、ビジネスマンとして抜け目ないというか。

ひどい候補者だなと思っていました。でも、どうもある一点では、俺はトランプ氏に魅かれるのです。べつに俺はアメリカ人ではないし、有権者でもないので、魅かれる理由は、もちろん政治家としてではありません。もし日本でこんな候補者がいたら、きっと投票しないと思うし。

トランプ氏は堂々と差別主義を振りかざしています。でも、差別的発言はダメだといいながら、無意識では(裏では)差別をしている政治家や権威者に「あなたほんとにそうなのか?」と疑問を突き付けているような、そんなふうに見えるところが無視できないのです。

『クラッシュ』(原題: Crash)というアメリカ映画がありました。第78回アカデミー賞作品賞受賞作品です。

ロサンゼルスで発生したある交通事故から物語は始まって、アメリカ人の中の差別、偏見、憎悪がうごめく世界を描いていますが、後半では救いのある話が描かれて、ようやくホッとできる映画でもあります。

差別や偏見はいけない、と誰もがいいます。でも、けっこう難しい。いや正直、俺の中にもあります。

もしかしたら、やっかいなのは、自分が差別とか偏見をいっさい持っていないと思いこんでいる人、無自覚な人なのかもしれないのです。

映画でも、それを思わせるような登場人物がいます。若い白人警官のトムです。【ここからネタバレ注意】

最初は、ベテランの白人警官ライアンのあまりにも黒人差別的な態度に我慢ならずに、同じパトカーに乗ることを拒否したくらいでした。そして、あやうくほかの白人警官が黒人を撃ってしまうところを自分の説得で回避させたことで、彼の「無差別主義者」が証明されたような事件が起こります。たぶん、彼はそれでますます自分が無差別主義者であり、正しいのだと自覚したのでしょう。

ところが、です。ある黒人青年を車に乗せてあげたとき、彼がポケットから取り出そうとした人間のフィギュアを、てっきり拳銃と早とちりして、撃ち殺してしまうんですね。皮肉としかいいようがありません。

自分の意識できるところでは、「無差別主義者」でしたが、無意識では、どこかに差別や偏見があったのでしょう。ポケットに手を突っ込んだら「拳銃だ」と反応してしまうようなものが。白人ならこうはならなかった可能性が高い。

こういう心理学実験があります。スーツを着た黒人と、手にナイフを持った作業着の白人が、地下鉄車内でもめているような絵を見せます。

それを「どんな絵だったか?」と尋ねると、黒人と白人が入れ替わってしまうというものです。ナイフを持っているのは黒人に違いないという思い込みというか偏見が、白人の心の底辺にしみこんでいます。

これほどやっかいなものです。

それと対照的に、差別主義者と自覚している、まるでトランプ氏のようなライアンなのに、ガソリンで爆発しそうになった事故車から、黒人女性を命がけで助けたりもします。

わからないんですよ、人間は。普段言っていることと違うことをやってしまう人間は、いくらでもいます。俺もそうかもしれません。

だからといって「差別主義者は良い」と言っているのではないことは、わかってもらえると思いますが。
  
 
 
 

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