知識が本質を見えなくする
放送大学「危機の心理学」では、おもしろいフォントの話が出てきました。以前ネットでも話題になったそうです。
日本人だからこそ読めないローマ字のフォントです。カタカナの知識が邪魔をするのです。日本語のカタカナを知らないほうがすんなり読めるというフォント。
(「寝ログ」参照)
たしかにそう。専門家と言われる人が深読みしすぎて的をはずす、本質を見誤るというのも、これと似ているのかも。
昔知り合った人が、
「なるべく長生きしたい。生きれば生きるほど知識が増えて賢くなるから」
と言ったことがありました。それを聞いて、本当だろうか?疑問がわきましたが、そのときはうやむやで聞き流すしかありませんでした。
それで、最近、「あぁ、やっぱり違うな」と思いました。知識が増えていくことがそんなに良いことでもないんじゃないかなと思ったのです。賢くはなるかもしれないですが、少なくとも知識が増えることと、幸せになることとは関係ないような、そんな気が。
『河合隼雄著作集5 昔話の世界』には、
「われわれは太陽について、雨について、あまりにも多くの知識を得たために、太陽そのもの、雨そのものを体験できなくなった。」
印象派の画家モネはこのことをこう表現しているそうです。
「もし私が盲目のまま生まれ、突然目がみえるようになったら! そうすれば目に映るものが何であるかを知ることなく絵が描き出せるだろうに。」
「モネの嘆きが端的に示すように、われわれ近代人はあまりにも多く知りすぎたために、何事かをそのまま体験することが困難になったのである。」
と、あります。
これを俺なりに次元を下げて考えてみると、例えば、美人やイケメンがいるとします。美人やイケメンをもっと知ろうとして、彼女や彼のレントゲン写真を見ているようなものかもしれません。
あるいは手足の長さの比は身長のいくらだとか、両目の距離が鼻の長さの黄金比になっているかどうかとか聞いても、それがどうした、というわけで、美人やイケメンを見てうっとりすることとはまったく別物です。(美人やイケメンは、欧米文化に影響を受けているということもあるでしょうが)
美人やイケメンにどうしてうっとりしてしまうのか、それを感じるのは、「知識」とは関係ないという話です。
知識が本質を見るとき邪魔をするという例は、他にもたくさんあります。専門家や頭が良い人の陥りやすい欠点はここにあるのかもしれません。
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