芸術療法

2018年12月29日 (土)

『ワンダーラストとセルフセラピー』(仮題)を執筆中

Olrean(Orléans 1980 by Aoyagi Kenji)


『ワンダーラストとセルフセラピー』(仮題)を執筆中です。なぜ「執筆中」とわざわざ書いたのかというと、こうして公に宣言することで、途中で書くのを諦めたりしないようにするためです。

旅をしたくてたまらない病を「ワンダーラスト」といいますが、実は、旅は病であると同時に薬でもあって、自分自身のセラピーの役も果たしていたという内容です。

「ワンダーラスト」は、「DRD4-7R」という遺伝子に左右されるそうです。人類の20パーセントがこの遺伝子を持っているらしいのですが、ただ、この遺伝子を持っている人全員がワンダーラストになるのではないようです。

「ワンダーラスト」という言葉を知ったのは数年前、ネットのニュースでした。それまでは、棚田が好きでたまらない「棚田病」とか、雲南省が好きでたまらない「雲南病」とか、あとは、南極に足を踏み入れた人が陥る「白い病」とか、ゲゲゲの水木しげるさんの「南方病」とか、そういった病の名前で呼んできました。いずれも症状は似ています。

単なる「旅好き」でなないところが病=ワンダーラストなのですが、これが、病であると同時に、薬にもなっています。俺も、旅(と写真)がなければ、精神的にどうにかなっていたかもしれません。

でも、それを意識していたわけではなく、やらざるをえないからやっていただけです。それが結果的に自分自身のセラピーにもなっていたということが、今になって分かったということなのです。

だからこれを「セルフセラピー(自己心理療法)」と呼んでもいいのではないかなと思います。

俺にはもともとワンダーラストになる条件や素質はあったのでしょうか? それを探るべく、子どものころを思い出しました。あとは、旅人生の大きな転換点になった、大学4年の時に行ったヨーロッパの旅について。

ジェームズ・ペネベーカー著『オープニングアップ:秘密の告白と心身の健康』という本があります。個人的な情報を打ち明ける「自己開示」やもっと内面を語る「告白」というものが、心身の健康や社会適応にいい影響を及ぼすという研究を扱った本です。

だから、過去を思い出し、それを人に語ること自体、癒しになるということも心理学で学んだことです。これを書くこと自体が、俺のセルフセラピーになっています。

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2016年3月29日 (火)

写真や旅がセラピストの役目をはたす

放送大学の単位認定試験の結果、心理学科目修得単位はこれで38.5単位になったので、「認定心理士」申請の要件「36単位以上」は満たすことができました。

あとは申請する手続きです。これには3か月くらいかかるようです。まずは、修得単位の証明書をもらうために大学に単位表を送りました。それが返信されてくるのが2か月後らしい。

それから日本心理学会に本申請しなければならないので、もし落とされることなく、無事に資格を取れたとしても、今年の夏くらいにはなってしまいそうです。

急いでないので時間はとくに気にしませんが、景観や風景など、今まで関心があったことについて、もっと自信を持って原稿を書けるのはいいかなと思っています。

そして新しく、講演会やセミナーやトークショーの講師と主催者をマッチングするサイトに登録することにしました。

今までも講演会やセミナーは頼まれればやってきましたが、これからはもっと積極的にやってみたいと思います。

テーマはもちろん棚田や旧暦もですが、今度は心理学を生かしたテーマにも取り組んでいきたいと思います。芸術療法、表現療法、写真療法としての写真と旅について。

イメージを活用して自分の創作活動に生かしたいと思って心理学を勉強し始めたら、写真や旅がいかに元気をくれたか、生きる上での助けになったか、自分にとってはセラピストの役目を果たしていたことがわかってきました。「写真療法」とか「表現療法」とか「芸術療法」とか、ちゃんと名前まであって、内容を知っていくうちに、これは俺が若いころからずっと抱えていた問題の解決策になるのでは?と思ったのでした。

それを発信する方法です。講演会やセミナーやトークショーは適しているのではないかと。

以前、バイオリニストの葉加瀬太郎さんのラジオ番組に出たとき、葉加瀬さんから「あおやぎさんにとって旅とは何ですか?」と聞かれた時、「やらざるを得ない、仕方ないもの」と思わず答えました。

「外に出たい」という強い衝動です。水や空気がないと死んでしまうように、旅がないと精神的に死んでしまうのです。だから逆に「旅しているときは精神的に安定する」と言うこともできるのです。

そのときは葉加瀬さんからも「なんて大げさな」とも思われたようだし、俺自身も、大げさな答えだなぁと少し恥ずかしくなりました。でも、今考えると、旅はまさしく俺のセラピストだったのです。無意識に答えことが、数年たって当たっていたことがわかりました。

詳しくは機会をあらためてまた書こうと思いますが、白いキャンバスに体を使って軌跡を描くようなイメージがあって、俺にとっては旅も「表現」のひとつなのです。

ただし、こういった切羽詰まった人は、一般的ではなく、特殊な人だけなのかもしれません。そこは自覚しているつもりです。副作用の強い薬の処方箋かもしれないからです。

でも、だからこそ、悩んでいたり、先行きが見えなくなっている人に少しは参考になることもあるかもしれません。
 
 
 
 

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2016年2月26日 (金)

小野京子著 『表現アートセラピー入門』 写真療法の可能性

表現アートセラピー研究所の小野京子先生の入門書 『表現アートセラピー入門』です。

ナタリーロジャーズが、パーソンセンタード表現アートセラピーを確立したのは、心理学者の父と画家の母の影響で、大学では心理学とアートを勉強したそうです。ふたつが合わさってセラーピーが生まれました。

表現には、絵やコラージュや粘土や詩やダンスやいろんな表現が含まれます。いや、表現できる手段なら、すべて使えるということでもあるようです。

大人が行うプレイセラピー(遊戯療法)とも呼べるもので、すべての表現は遊びに通じ、どんな手段を使うかは、その時々で変わってくるのも自然なことだといいます。

同感です。俺も、結果としてアートセラピーを自分で実践していたことが、今になってわかったのですが、やっていると、写真だけではなく、時には作曲もしたくなるし、文章で表現したくなる時もあるし、また、旅に出たくなることもあります。

それは子供の遊びを見ていてもわかります。手段はまったく気にせず、楽しいことをやろうとしているだけです。それが本来の「遊び」というものでしょう。

こういう表現を「職業」ととらえてしまうと、「どれかひとつに絞りなさい」ということなのでしょうが、「療法」と言う面から見たら、その制約は百害あって一利なし、ということなのでしょう。(ただ、俺の場合結果として、一部は「職業」にもなっているのですが)

それともっと大切なのは、こういう複数の表現を遊びながら楽しみながらやるということで、バラバラになってしまった自己を統合して「自分というもの」を実感するためには、必要なことだと思うし。

この本のアートセラピーでは「写真」には触れていませんが、写真も当然表現アートセラピーとして使える手段のひとつです。

最近は、スマホ、携帯電話で撮る人が多く、今までのようにわざわざカメラを出して撮るというわずらわしさがないぶん、手軽に表現できる手段として、写真はますますアートセラピーとしての使い方が注目されていくのではないでしょうか。

アートセラピーでは、作品の上手、下手は関係ありません。アートはその行為自体に癒しや心の活性化をはかる効果があって、写真を「評価」することは、セラピーという点からはむしろ害があるようです。

ただ、いい評価は、嬉しいことでもあり、たとえば、写真をSNSにアップして、「いいね!」をもらうことなどは、写真を撮り続ける動機付けにはなるかもしれないので、悪いことではないかもしれないですね。

 
 
 

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2015年12月17日 (木)

MOMATコレクション特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示

東京国立近代美術館では、MOMATコレクション特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示が開催されました。戦争画14点の一挙展示は初めてだそうです。(2015年12月13日まで)

第2次大戦中、戦争画を描いたことから「戦犯」と批判されて、嫌気がさした藤田は、日本を出てフランスに渡りました。

「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」と言ったそうです。1955年にはフランス国籍を取得しました。

戦争画を描いたのは、ヨーロッパから帰国後の1932年(昭和7)から1949年(昭和24)の間です。『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』、『アッツ島玉砕』などの作品を手がけました。

陸軍報道部からは、国民を鼓舞するための絵を求められて描いたそうですが、戦場で戦う兵士たちの暗い画面の群像は、戦争の残酷さ、惨めさなどを感じさせる、おどろおどろしい絵のように感じます。「戦争協力者」の批判が的外れに感じるほど、人間の本質を描いた作品のようでもあります。

藤田は、西洋で認められた画家で、日本人画家には羨望の眼差しで見られていました。陸軍関係者の多い家柄だったということもあり、戦犯として批判するにはもってこいのターゲットだったのでしょうか。

なお展示会場の一角には、俺にはすごく興味深いコーナーが設けられていました。藤田が監督した日本の子供たちの生活を撮った映画です。

『現代日本 子供篇』"Episode of children" from Picturesqu Nippon.

1935年(昭和10)製作、8分38秒の作品です。

日本に帰国後、藤田は戦争画を描くと同時に、民俗学者のような視点で地方の文化も描くようになったそうです。ヨーロッパを見続けた藤田にとって日本はエキゾチックな「「異国」に映ったに違いありません。創作意欲が刺激されたのではないでしょうか。

そんなとき、海外向けに日本を紹介する映画シリーズ『現代日本』の監督の依頼がきました。担当したのが『日本風俗』の5巻。ただ、現存するのは唯一この『子供篇』だけだそうです。

ロケ地は愛媛県松山市。散髪屋、紙芝居、祭り、遊びなどの映像が、少ないセリフとともに淡々と流れます。昭和初期の風俗がめちゃくちゃ面白いですね。夜には真っ暗になり、妖怪がまだうようよいた時代です。

でも驚いたことに、子供たちが「貧しげで国辱的」と批判を受けて、お蔵入りになってしまった映画だそうです。どこが「国辱的」か俺にはわからないですねぇ。子供たちは生き生きしていると思いますが。批判した人間は何と比べて「貧しい」と判断したのでしょうか。
 
 
 
 

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2015年3月20日 (金)

認知症には芸術療法が効果的というニュース

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以前、「認知症には芸術療法が効果あり」というニュースがありました。

認知症には薬の治療もありますが、「非薬物療法」である芸術療法(絵画・音楽など)も応用されているようです。

脳を活性化させることが認知症予防に有効だという話は聞いていましたが、治療としてもすでに取り入れられているんですね。

「脳を使う」ということだったら、写真よりも、絵のほうがより使うかもしれないですね。そもそも頭の中にイメージがないと絵に描けないし、それを出力するには、紙に向かって手を動かさなければなりません。

写真はとりあえず、機械的にシャッターを押すだけで撮れます。それがいい写真かどうかは別として。

ただ「こころを活性化させる」ということであれば、むしろ写真のほうが絵よりもハードルが低い分、手軽にやれる部分もあるのではないか、という気もします。

「写真療法」というのはちゃんと確立されているんでしょうか。残念ながら「絵画療法」ほどではなさそうですが、何かいいやり方がないのか、考えてみたいと思います。新しい写真の使い方として。

日本芸術療法学会理事の山中康裕先生は、患者に合わせて、いろんな療法を試してきたといいます。その中には「写真療法」というものがありました。「写真療法」を初めて提唱したのが先生だそうです。

ある精神的に悩む患者さんがいて、写真が好きだとわかったので、写真を撮るように勧めたら、撮ること自体で、症状が改善したという例から思いついたらしい。

病気の人にだけではなくて、イメージの表現は一般の人にも、精神的にいい状態を保つひとつの方法であるといいます。芸術療法は認知症にも効果があるという話は納得できますね。

 

 

 

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2015年3月17日 (火)

「芸術療法」と棚田

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箱庭療法というものを知ったのは、ユング心理学の河合隼雄氏の本を読んだときでした。

砂の入った箱の中に、人や動物や木などのミニチュアを置いていき、箱庭を完成させるという心理療法のひとつです。

これを見たときハッとしたのです。そして思い浮かんだ言葉は「棚田」や「原風景」というものでした。

そのときは漠然とですが、棚田の写真を撮る(というより棚田のある現場に立つ)行為が、この箱庭療法と似ているのではないかというものでした。とくに棚田のある集落を俯瞰したときの感覚が、箱庭を眺めているような感覚なのです。

その後いろいろ調べてみると、箱庭療法は、大きな意味で芸術療法(アートセラピー)に入り(独立した療法だという説もあり)、この芸術療法の中には、写真療法というのもちゃんと入っていたのです。芸術療法は、日本では1960年代から研究実践されていて、イギリスでは保険サービスとして認められている公式な療法だそうです。怪しいものではありません。

俺は「写真家になりたくてなったのではない」とさんざん言ってきました。俺にとって写真は、職業ではないという自覚が最初からあったからですが、この芸術療法という点から見れば、まさに、俺にとっての写真を撮る行為は、写真療法そのものになっていたんだなぁということが分かります。「療法」というと病気を治すイメージですが、「表現」にはそもそもそういう治療的側面が伴ってしまうので、ここではあまり病気か病気でないかを区別する必要なないような気もします。

そして写真を撮る行為だけではなく、その被写体である棚田や原風景というものも、もしかしたら、この芸術療法と関係があるのではという直感があります。

心に関して、ユングの考え方では、「意識」→「個人的無意識」→「普遍的無意識」というふうに階層を作っています。この一番深いところの「普遍的無意識」というのは、人類が共通して持っている無意識で、あるイメージとなって現れるといいます。

掲載したバッティック(ろうけつ染め布)は、昔、マレーシアのコタバルに滞在していたとき描いたものです。これは俺の心に浮かんだ曼荼羅ですが、曼荼羅も「元型」のひとつだそうです。この場合は、写真ではないので「絵画療法」といっていいんでしょうか。(ただ、だからといってこの曼荼羅から俺の精神状態を分析できるのかはわかりませんが)

それと俺にとっては、作曲や旅も「療法」と考えることもできます。ただし、すべて「療法」と捉えてしまうのもどうかと思いますが。

「普遍的無意識」には、いろんな「元型」があるわけですが、もしかしたら、「棚田」や「原風景」といわれるものも、この「元型」のひとつなのではないかということも、ひとつの考え方としてはありでしょう。

なぜそう思うようになったかというと、20代の青年と話をしたとき、彼は都会生まれで「田舎」というものもないし、近くに棚田があるわけでもないのに、「なぜか棚田にひかれる」と言ったのです。

俺は子供のころ「棚田」とは意識していませんでしたが、さんざん田んぼは見て育ったので、俺が棚田にひかれるのは、子供のころの体験が影響しているんだろうと漠然と考えていたわけですが、彼のようなタイプだと、そういう理由が見当たりません。

また、外国の棚田を訪ねたとき、外国人(欧米人)と会う機会があって、彼らと話をしていて不思議だったのは、こういった棚田の風景に癒されるというのです。彼らもまた子供のころの体験というものでは説明できないものを持っています。

そこで考えられるのは、このユングの「普遍的無意識」の「元型」のひとつなのではないかということです。もちろん「棚田」そのものではなくて、あくまでも意識されたときのイメージとしてですが。「原風景」というのは、なおさらそうかもしれません。もちろん「原風景」は個人的なものです。だから「日本人の原風景」という表現は正しくないかもしれません。

これから先、この芸術療法(とくに写真療法)と「棚田」や「原風景」のイメージについて少しづつ考えていきたいと思います。

なぜ「棚田」や「原風景」に癒されるのか。いろんな角度から考えてみる。そのひとつに心理学的アプローチがあってもいいのではないかと考えています。

 

 

 

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